函館と津軽海峡を守るために奮戦した橘型(改丁型)駆逐艦「橘」と、松型(丁型)駆逐艦「柳」のこと。その2

駆逐艦橘ト駆逐艦柳奮戦セリ

函館と津軽海峡を守るために奮戦した橘型(改丁型)駆逐艦「橘」と、松型(丁型)駆逐艦「柳」のこと。その1の続きです。

1944(昭和20)年7月14日。時系列で追っていきます。

福島沖 駆逐艦柳~敵との遭遇

3:30頃、福島沖に停泊していた駆逐艦柳の電探室で「敵大編隊らしきものが東南東海域を北上中」とキャッチ。この情報を航海士は艦長と大湊に通報しました。ところが、実際にラジオから空襲警報が流れたのは4:50。柳の艦橋ではずいぶん情報が遅いとやきもきしていました。

それから程なくして夜明け後少し経ってから敵大編隊機群が北上してくるのを目視。艦長の「総員配置につけ!」の号令が出ると、静かだった艦内が途端に動き出します。「機関科配置よろしい!」「砲術科配置よろしい!」と、各科からの報告が次々に届き、緊張が走りました。しかし、先刻の敵大編隊機群は室蘭や函館方面へ向かったのか、山陰の向こうへ飛び去っていきました。

見張員たちも異常なしと報告していましたが、いつ何時敵機の襲来があるかわかりませんので、捨錨(※1)の準備を始めました。

函館 駆逐艦橘~突然の戦闘、そして沈没

函館を爆撃する空母エセックス艦載機のグラマンとカーチス

函館を爆撃する空母エセックス艦載機のグラマンとカーチス

引用:米国国立公文書館

5:00、函館の南方恐山上空に雲霞のような数え切れないほどの航空機が現れ、函館市上空に殺到してきました。敵機の群れは市街地区及び就航中の連絡船に猛烈な機銃掃射と爆撃を加え、連絡船はどんどん沈んでいきます。市街地からも火の手が上がり始めていました。

橘は5:40頃に戦闘ラッパを轟かせながら、函館上空で乱舞している敵機に主砲射撃を開始。この砲撃で湾内に駆逐艦がいることに気づいたのか、約80機の敵機が一斉に橘に向かって攻撃を仕掛けてきます。

6:00、捨錨して出港し、面舵、取り舵の連続で右に左に進路を変えて回避しながら最大速力で敵機と交戦。爆発予防のために、水雷と爆雷は投棄されました。しかし、4~5機のグループとなって次から次へと波状攻撃をかけられる中、息つく暇もありません。橘は全主砲と機銃を撃ちまくって応戦しますが、敵機の機銃掃射によって甲板にいる機銃員が次々と倒れていきました。

この時の戦いの様子を、資料からいくつか引用したいと思います。

機銃はよく撃ちました。特に三連装の一番機銃は大変有効であり、そのため艦橋はほとんど無傷でした。機銃の弾道は曳航弾ではっきりと見えます。相手側にもよく見えるらしく、弾道の先端までは迫りますが、内側には入って来ません。水面に弾の跡をつけ、機銃掃射しながら向かってきます。弾の跡の延長線上に居れば当たるわけですが、内側まで入ってこないとこちらまで届かないのです。(児玉水測士)

グラマンからは2本の真っ赤な火の筋のような機銃が発射され、海面にも水柱の2本の筋がさあっと立ち上がって迫って来る。大砲は3門あったが、間もなく故障し使用不可能になった。撃って撃って撃ちまくったがぜんぜん当たらず、私が自分の目で確認した撃墜は1機もなかった。つくづく飛行機と艦では戦争にならんと実感した。編隊は10数組で、およそ130機が機銃を雨と降らせていった。(豊岳航海士)

戦闘中は一番三連装機銃の配置で機銃弾装の装填作業中のため、戦況は断続的にしか確認できませんでした。しかし次から次へとグラマンが機銃と爆弾を投下するのを目視出来ました。突然身近に“バリバリ”と音がし、足元を見ますと床が血でぬるぬるとして、移動すると足が滑るのを覚えています。(菅原一水)

引用:北海道函館北高等学校郷土研究部レジュメ(抜粋)p.4~8

6:35、函館港外で交戦中だった第三日之出丸(特設監視艇・※2)が橘の救援に向かっています。

6:40、二基あった機関の一基が被弾し、速力が一時半減。被弾箇所を塞げばまだ戦闘速力は可能だと機関部では考えていましたが、再び被弾してしまい航行不能となりました。動けなくなってからは敵機の恰好の的となって、銃撃を受けた上甲板の機銃関係員はバタバタと倒れていきました。

6:50、4000mくらいの高度から一列となって順に急降下してくる爆撃機からの爆弾が、ついに橘の後部に命中し退艦命令が出されました。次第に右舷から傾斜していく橘。それからはあっという間に生存者は海に投げ出され、重油で真っ黒になりながら沈みゆく橘を見ると、右舷に大きな穴があき、その艦首を天に向けて5分ほどで静かに没していったそうです。

場所は、北斗市葛登支灯台の東約3.4km。(90度2分)。僚艦である柳は「我轟沈す。6.53」と橘からの電文を受けています。

葛登支灯台沖

葛登支灯台沖

生存者は約2時間ほど漂流しました。のち、空襲警報が解除されてから近くの漁船数隻と、茂辺地・当別に駐屯していた轟部隊の上陸用舟艇が救助に向かい、157名を救助(重軽傷者47名)。茂辺地付近に着岸し、重傷者27名は臨時列車を海岸近くに停車し軍医長指揮のもと函館病院へ。うち1名は腹部に大怪我を負い輸送中に息を引き取りました。軽傷者約50名は茂辺地の病院へ。元気な者は民家へ分宿。軽傷者は16日午後2時52分の列車にて函館へ出発。残存兵は艦長以下17日午前10時7分函館へ。橘の戦死者は病院で亡くなった者を含めて140人で乗組員のちょうど半分でした。

艦の傾斜が次第に増し、その内に海中に身体がすい込まれ、“ごう・・・・”という音を記憶しています。時間的にどの位たったあとでしょうか。呼吸が出来る・・・生きているという実感が感じられました。波間には乗組員が浮遊物につかまり、助けを待っていた。沈没時、永井上水は小生と同じ一番三連装機銃員の配属であり一緒に漂流していましたが、受傷していた様子で顔色がすぐれず、かつ眼の動きが定まらず意識が薄れ、あとはよろしく頼むと故郷の母親を思い“オカーアサーン”と心の底から叫んで、そのまま海中に沈んで行きました。今でも鮮明に記憶しています。(菅原一水・一番機銃配置)

引用:北海道函館北高等学校郷土研究部レジュメ(抜粋)p.7

海に投げ出された生存者は皆、函館湾内の方へ流されてきた。ただ一つ明瞭に思い出すのは、油の海に漂いながら岸辺を見ると我々を救助するために集まった人々の二本の足が明瞭に見えたので、岸辺の近いことを知って助かる自信がついたことです。それから漁船に助けられて浜辺にたどり着き、小学校に収容され油だらけの体を目に染みるような真っ白な柔らかい布団に寝かされ、この真っ白な布団がこの辺りの漁師の大切な布団であることを知った時は、本当に嬉しかった。誠に上磯の方々の懸命な救助と親切には感謝に耐えない。(藤本氏・上甲板右舷機銃座弾薬掛)

引用:地域史研究はこだて第22号p.69~70

ちなみに、橘の救援に訪れた 第三日之出丸は11:56頃現地とおぼしき場所に到着しましたが、すでに艦の姿も漂流している乗員も見当たらなかったとのこと。代わりに被爆炎焼中の機帆船孝栄丸を発見し、乗組員9名の中1名重傷者があり、救助して函館に揚陸しました。

福島沖 駆逐艦柳~ついに戦闘

橘が奮戦していた頃、柳はまだ戦闘前でした。柳としては、敵機が来襲する前に沖へ出て敵に発見されやすくなる状況は避けなければなりません。かといって、福島町から近いこの場所に碇を下ろしたままでは、福島港付近も敵の攻撃範囲に入ってしまい福島が大変な被害を受けることとなってしまいます。そのため、戦闘になったらすぐに捨錨して出港できるよう、準備していました。

すると、柳から見て東方の海上に青函連絡船第三青函丸が現れました。空襲警報発令中なのに、何たる無謀、敵は陸上鉄道列車も容赦なく攻撃破壊したとの報告もあるのにと、艦橋内で案じていましたが、その矢先、北から反転してきた敵機が盛んに第三青函丸を攻撃し始めました。しかし、柳からは遠すぎて助けることも出来ません。沈没したかどうかは上がり始めた白煙に阻まれて柳から見ることはできませんでした。間もなく敵機が三厩方面へ向かい、沖に浮かんでいた小さな漁船らしき機帆船まで攻撃し始めるのが見え、あっという間に轟沈させられていきました。

第三青函丸は、後の資料では右舷中央部に魚雷の直撃を受け7時30分、矢越岬南南東3.8浬で沈没、沈没後もなお漂流者に銃撃が加えられたそうです。乗組員77名中64名が戦死しました。

柳応戦展望の碑近くから

柳応戦展望の碑近くから

6:56、ついに柳に敵機動部隊が襲いかかりました。「捨錨!」「前進一杯!」「面舵にあて!」艦長の号令で一気に動き出すと、瞬時に敵機が急降下してきます。「打ち方はじめ!」後部高角砲を発射、すると柳の右舷側に爆弾投下されましたが、海底にもぐりこんだのか水柱はたたず。激しい敵からの攻撃の中、回避運動をしつつ南方の広い海域へ進みました。

機関は調子が良く、すぐに高速となりましたが、敵は正面から、右から、左から、艦尾からとどこからでもやってきて、機銃掃射してきます。約50機はいたとのこと。もちろんこちらも撃ちまくり、艦橋に轟音の波が押し寄せる中、敵機の機銃弾が艦橋の中まで飛んできて火花が散り始めた矢先、左二番見張の浅田兵曹が機銃に当たって戦死しました。その後もひっきりなしに艦橋に機銃弾が飛び込み、通信士の大腿部を撃ち抜きました。

艦長は、敵の攻撃をにらみつつ面舵、取舵と令して回避運動を続けます。が、次の瞬間「舵故障、艦長、舵が効きません!」と叫ぶ操舵長。操舵系統の油圧装置が機銃弾でやられたのか舵が故障してしまった模様。手動の応急操舵で回避運動を繰り返しました。

7:16、一際激しく柳が揺れました。「艦長、艦尾がやられました!」後部砲塔の後ろから艦尾がまくれあがっていました。機関は無事でしたが、推進器もろとも消し飛んでいたのです。これでは直す事もできません。

敵機は柳は沈没したとみなしたようで、全機引き揚げていきます。柳も攻撃を止めました。とたんに静かになった艦内。

(この時の実際の柳の姿は、「福島町史 第三巻 通説編 下巻」のp.954に米軍機によって撮影された画像が掲載されています。)

急ぎ、故障箇所のチェックを行うと、舵も効かず電源故障となり電信も通じず、計器類はすべて狂ってしまっていました。仕方が無いので、航海士は六分儀で位置を出したところ、白符の真南約5kmの地点だったようです。そのうち、柳は右舷から傾いていきました。海上には投げ出された兵が多数いて、短艇を下ろして救助しようと試みましたがいずれも敵弾で穴があけられてしまっており、使用不能となっていました。

艦内にも負傷者が多数おり手当などしつつも、艦が動かないのでなすすべなくしばらく漂流していたところ、福島連絡基地の大型運貨艇が向かって来てくれたのでした。手旗信号で運貨艇に曳航を頼むと同時に、運貨艇からの手旗で橘が函館沖で轟沈したことも知らされました。艦長は橘轟沈を皆には黙っておくよう指示しましたが、信号を目撃していた兵もいたため、皆が知るのに時間はかからなかったそうです。

運貨艇は戦死傷者を乗せて一旦戻った後、4隻の漁船と共に現れ、柳を曳航しました。12:30に海岸に近い場所に到着、残りの重傷者は陸へ移されました。柳の戦死者は21名でそのうち16名は砲術科員で甲板にて機銃配置の兵、重傷者は40名でした。また、敵機6機撃墜(うち3機は不確実)したとのこと。

駆逐艦「柳」が米国の艦載機と戦闘中は山中に避難していました。それは激しい戦闘でした。そのあと十時過ぎであったか、私が長寿丸の機関士として駆逐艦「柳」の曳航に行くことになりました。~中略~あの激しい戦闘が終って直後のことであり、いつまた敵国の飛行機が飛んできて銃撃や砲撃されるかという危険があったのですが、福島町、そして日本のために身命を落として戦ってくれた兵士のことを考えながら吉岡漁港から妻と長男の見送りのもとに白符沖の駆逐艦「柳」の曳航に出港しました。

引用:福島町史 第三巻 通説編 下巻p.973

戦死者や負傷者は、福島漁港の桟橋に上げられ、それをリヤカーを用意してまちかまえていた多くの町民の手によって丁重・迅速に、「死なしてなるものか」「死なしてなるものか」と掛け声をかけ、リヤカーに乗せて福島大神宮の坂もものともせずに、法界寺に運んだ。一方駆逐艦「柳」の艦上から、町民の手でリヤカーを引いて、桟橋に詰めかけ、懸命に負傷者を運んでくださるのを、感謝の気持ちを持ち涙を流しながら水雷長は、望見されていた。

引用:福島町史第三巻 通説編 下巻p.974

戦死者は法界寺へ丁重に安置され、負傷者は矢野旅館などで町内の医師や婦人会の方々も協力して治療を受けました。

駆逐艦柳、大湊へ

その翌日、7月15日、第十一水雷戦隊は解隊、同時に第五十三駆逐隊も解隊されました。第五十三駆逐隊桜、楢、椿、欅、柳、橘のうち、司令駆逐艦であった桜は7月11日大阪湾頭で敵の投下機雷に触れ沈没、楢は6月30日関門海峡付近で触雷中破しており、柳の大破、橘の沈没でこの処置が取られたのだろうと、柳の鎌田航海士は述懐しています。

同日付で柳は大湊警備府警備駆逐艦とされました。また、この日戦死者の火葬が行われました。

7月16日、町民の協力を得て、火葬した遺骨を納めて前部砲術科倉庫に安置。その夜、風が強く吹いて艦首が砂浜にのし上がってしまいました。発電装置が復旧したので、電探での索敵も再開。

7月18日、大湊から負傷者輸送の船が到着。負傷者全員を無事輸送。

7月19日、大湊から救難船淀橋到着。満潮を待ち砂浜に上がってしまっていた艦首を引きおろし、13:00大湊まで曳航開始。曳航速力は10ノットですが、実速最大6.5ノット、最低3ノット、海峡の海流のせいでこれ以上は速力が出ず。到着したのは21日1:00、大湊港外に仮泊。8:00に改めて内港浮標に前後係留替え。

空襲再び

8月9日のことです。敵機が大湊地区に午前午後数次に渡って約二百数十機が恐山方向から来襲しました。停泊艦十数隻が一斉応戦し、柳は動けないながらも全高角砲、機銃群を撃ち、活躍しました。戦闘が終わり、柳には被害がありませんでしたが、停泊していた敷設艦常磐が大きな被害を受けました。

翌10日も早朝から敵機来襲。前日より烈しく延べ500機が何度かにわたって来襲しました。どの艦も懸命に応戦しましたが、柳は重傷兵1名(のち戦死)、軽傷兵1名の被害を受けます。

→ 画像はこちら「帝国海軍最後の海空戦・大湊空襲(青森空襲を記録する会)」

そして、8月15日。玉音放送は甲板上で先任将校以下が聞きました。柳は、この日付で第四予備駆逐艦となりました。

8月19日、兵員全員が呉に引き揚げることに。最後に駆逐艦柳の船体といよいよ別れる時、全員で「帽をふれ」の挨拶を行ったそうです。

その後、柳の船体は大湊港外に移され、敷設艦常磐とともに付近の海岸に擱座(浅瀬、暗礁に乗り上げて動けなくなること)させられていたようですが、昭和21年10月から翌年5月にかけて解体されました。

今回調べて初めて知ったのですが、主砲や機銃の操作って全て甲板上で行っていたんですね。機銃掃射されている最中、弾薬を装填する人、照準を合わせる人など、甲板上にたくさんいるんです。単装機銃は1名、三連装機銃は9名、八九式12.7センチ連装高角砲はなんと11人で操作していたんですって。すべて艦橋から自動で行っているのだと思っていました・・・。それと、連装機銃って2つ同時に撃ち出されるのではなく、左右の銃を交互に撃つ物で連続して発射するというものなんですね。単純に単装機銃2つ分の働き、つまり戦力2倍!なんて思ってました。

砲員の被害が甚大なのは、そういうことだったのですね・・・。

その後の橘と柳について、その3へ続きます。

※1 捨錨とは:突然の荒天などで緊急出港しなければならない時に、揚錨する時間 がない場合、切り離して錨と錨鎖を捨てて行きます。錨にはブイなどをつけてあとで回収できるようにしておきます。

※2 特設監視艇とは:民間船を徴用し、海軍所属の艦艇としたもの。第三日ノ出丸は特設監視艇として、洋上哨戒にあたるのを任務としました。

参考文献

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