函館と津軽海峡を守るために奮戦した橘型(改丁型)駆逐艦「橘」と、松型(丁型)駆逐艦「柳」のこと。その3

駆逐艦橘ト駆逐艦柳奮戦セリ

函館と津軽海峡を守るために奮戦した橘型(改丁型)駆逐艦「橘」と、松型(丁型)駆逐艦「柳」のこと。その2の続きです。

注意:橘の項に遺骨の画像があります。

駆逐艦 柳の記憶

平成3年5月3日、福島町にある中塚橋の月崎側に、「駆逐艦柳応戦展望地」の標柱と、館崎トンネルメモリアルパークに「駆逐艦柳平和記念塔」が設立されました。さらに、平成6年7月10日、法界寺で五十回忌の法要が行われ、五十周年慰霊祭が記念塔の前で斎行されました。

駆逐艦柳 応戦展望の碑

駆逐艦柳 応戦展望の碑

駆逐艦柳平和記念塔

駆逐艦柳平和記念塔

駆逐艦柳平和記念塔裏

駆逐艦柳平和記念塔裏

昭和20年7月14日、早朝、月崎沖合約500Mから慕舞(白符3)沖合約800Mの海上で、アメリカの艦載機10数機と日本の駆逐艦柳とのあいだで空も破れるような激しい交戦がありました。そのときアメリカの艦載機が3機落とされました。しかし、柳も艦尾を爆弾でやられ60名の負傷者と21名もの戦死者を出しました。当時の町民は、攻撃がまだ続くと予想される恐怖と不安のなかで負傷者の救護に務め戦死者をだいじに弔いました。 また、漁船4そうを出して柳の曳航作業にも手助けをしました。そしてその交戦の様子を見、聞きしていた人や日夜救護にあたった人、戦死者を弔いました人、監視所で役務についていた人、柳の曳航に力をかした人など、64名の同志が会を設立し、国を守り、町民を守るために勇猛果敢に戦った戦死者の霊を慰め後世にこの事実を正しく伝え、永遠の平和を願って記念塔を建立することになりました。 平成三年四月 建立委員会

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駆逐艦 橘の記憶

橘の戦火の跡

橘の戦火の跡

引用:北海道新聞朝刊 昭和31年12月24日

昭和31(1956)年9月、折からの鉄鋼ブームの中、駆逐艦橘の引き揚げ作業が開始され、ついに12月18日朝、二つに折れていた艦体の前部が11年5か月ぶりに浮上、有川鉄道桟橋の浅瀬に引き揚げられました。艦内からは80体分の遺骨が発見されて函館市古川町の極楽寺に埋葬されました。

画像の通り、水面上に出ている艦橋や艦長室、兵員室、弾薬供給所などはそのままの姿ですが、艦体には無数のカキがこびりつき、内部は泥が充満していてそのままでは入る事ができなかったとのこと。さらに、艦上には信管が付いたままの砲弾や吹き飛んだ鉄板や折れた鉄柱などが散乱していました。高角砲は空を向いたままになっており、最後まで戦い抜いたその瞬間のまま・・・。

橘鎮魂の碑

橘鎮魂の碑

その後、月日が経ち平成3(1991)年7月13日、函館護国神社境内にて帝国海軍駆逐艦「橘」の鎮魂の儀、および駆逐艦橘戦没者鎮魂の碑除幕式が行われました。ここに、参列された橘水雷長兼分隊長であった池田氏の祭詞を引用させていただきます。

 本日当函館市護国神社境内に於ての駆逐艦橘戦没者鎮魂の碑除幕式に臨み謹んで百四十柱の英霊に申し上げます。
顧みれば今から丁度四十六年前の明日即ち昭和二十年七月十四日折柄対潜哨戒中の駆逐艦橘は早朝から米艦載機の攻撃を受け約一時間に及ぶ全艦挙げての対空砲火による反撃も空しく六時五十三分遂に沈没の悲運に見舞はれたわけです。
交戦の間及び海上に放り出されて漂流中更に陸に着いてからの戦死者を加えて実に乗組員の半数が散華したことになります。
まことに痛恨の極みであります。既に制空権を全く失っていた当時の状況として一度空襲を受ければ対抗すべき手段も限られあのような結果になることは予想されたこととは言いながら残念でなりません。
当時私も同艦上に在り沈没後は同じ海面を漂流し乍ら今こうして皆様方の前に立って思い起こすとき紙一重の運・不運を痛切に感ずると同時に外に方法は無かったのかと悔やまれてなりません。
艦長の林少佐は昨年九月に亡くなりましたが戦死した部下についてはさぞ心残りが有ったと思います。
当函館市はその沖合に於て皆様方が全力を盡くして戦いその生涯を閉じた場所であり必ずや安住の地となることでしょう。

平成元年(1989)に北海道新聞に掲載された林艦長の証言

 「函館病院に入院患者を見舞い、再び茂辺地に帰りついた。帰りの機関車で風に吹かれながら、入院患者の乗組員の一人が『艦長、大和隊出撃参加決定の時、家族に出した最後の手紙が、変なところで役に立ちましたね』といった言葉が妙に頭にコビりついていた。」
「象(米)に立ち向かうカマキリ二匹の戦いだった。百四十名もの有為の青年が(橘と)運命をともにした。もし戦争終結が一カ月早かったらと考えるのは歴史に対する冒とくであろうか」

「橘」の慰霊祭は以来毎年同時期に行われており、遺族や生存者、関係者が集い執り行われているそうです。

付録:特設艦船について

特設監視艇とは、民間船を徴用し海軍所属の艦艇としたもので、軍船を新規で建造するよりもはるかにコストがかからず、船員もそのまま徴用できることから、日本では日露戦争の頃から建造されてきました。民間の船舶が建造される際、戦時に徴用されて特設艦艇に改装されることを条件に補助金が出されたりもしました。と言っても、もちろん正規の軍艦並みの改装をされることはあまりなく、速度も遅く装甲も薄いため防御面は弱いものでした。

この特設艦船、津軽海峡周辺にも多く配置されていました。初めから軍船として建造されたものもありますが、元は民間船というものも多く、指揮を執るのは海軍士官ですが乗員は民間人も多かったようです。しかし、そんな特設艦船とはいえ、国際法上は軍艦です。ひとたび敵に会えば戦わなければなりません。

今回、一連の記事を書くに当たって駆逐艦と同様に戦いに身を投じながらも、ほとんど知られていないであろう特設艦船たちのことについて少し紹介します。

以下は、「大湊防備隊戦時日誌戦闘詳報(9)」よりまとめた同防備隊に所属していた特設艦船についての記録です。

一、東口隊

敵潜水艦の海峡への侵入阻止撃滅を主とし、通過味方船団の間接護衛任務遂行中。

(イ)黒埼(乗員61名)
十二日函館発哨区にありて右任務につき行動中十四日一○五○恵山北方一○粁(キロメートル)地点にてグラマン七機の銃爆撃に依る攻撃を受け之と交戦一応之を撃退せしも続いて同日一四三○函館入港直後より敵艦上機数機宛延約五○機主として在泊艦船を目標とし来襲第七福栄丸と協同攻撃を実施之を撃退せり

爾後負傷者その被害物件処理のため大湊に同航す

(ロ)七二駆特(乗員21名)
十三日函館発哨区にありて同任務に付き行動中十四日○六一五臼尻にて敵小型機五機と交戦軽微なる損害を蒙りたるも続いて同日一四三○頃敵グラマン約十五機と交戦之を撃退せり

二、西口隊

西口の哨区にありて敵潜の海峡侵入阻止撃滅の目的を以て哨戒中

(イ)九龍丸(乗員27名)
同艇は十日○八○五右任務に従事中船底暗礁に接触ために推進器その他破損に依り函館に回航修理中第一次空襲(○六○○頃)に遭遇海二一五海一九六と共に協同攻撃を実施○六三○敵機一撃を加へ来り之と交戦集中攻撃により相当の命中弾を与え撃退す 続いて十五日一一二五港湾地区に侵入船舶に攻撃を加へ来る敵機二機と交戦東方洋上に遁走せしむ

(ロ)朝洋丸(乗員23名)
同任務を有し十三日○五○○頃函館発爾後現在に至るも消息不明
十四、十五日の空襲後朝洋丸所有の機密書類箱七月十九日白糠海岸へ漂着せるを以て同空襲により被弾沈没せるものと推断さる

(ハ)第三日ノ出丸(乗員19名)
同任務を有し十四日朝哨区交代に就かんとせん時敵機来襲駆逐艦橘被弾沈没のおそれありとの報に接し救難に向ひ○六三五頃現場葛登支岬南東約三浬に急行せるも同船沈没人員見当たらず付近にて爆破炎上中の機帆船乗組員九名を救助函館へ一旦回航後哨区へ向ふ
十五日一四○○に至り敵グラマン二機の攻撃を受け之と応戦敵機銃弾により機械室火災沈没の報あるにより同二十八分遂に袰月海岸に座礁し沈没を防止す火災は同日二三○○頃鎮火せるも船体の大半焼失せり但し兵器重要書類は搬出完了す

(ニ)第二号明治丸(乗員17名)
哨区にて行動中十四日早朝の敵機空襲後現在に至るも消息不明
福島付近にて敵機の空襲に依り沈没せるものと推断さる

特別任務

第二朝洋丸(乗員24名)
水路特別任務のため十四日○五四五函館発作業地に向け行動中○六○五函館灯台に二○度一浬半の地点にて松前丸敵艦上機十数機の攻撃を受けあるを認め護衛のため之と交戦同○六二五駆逐艦橘被弾により傾斜しつつあるを認め橘襲撃の敵機と交戦何れも戦果被害なし同一四三○木古内沖五浬の地点に於て敵機グラマン十五機と交戦被弾防火防水に努むるも一八○四炎上沈没す

大湊防備隊戦時日誌戦闘詳報(6)には、他にもたくさんの船の情報が掲載されていて、上記とだぶりますが全ての艦船の名前を列挙します。

第八一號駆潜特務艇
宮丸
雄島丸
文山丸
野柳丸
黒埼
第七二号駆潜特務艇
第二東日本丸
水上丸
九龍丸
第二明治丸
朝洋丸
第三日ノ出丸
第二○三號駆潜特務艇
第二一二號駆潜特務艇
瑞穂丸
第二朝洋丸
一○○九號曳船兼交通船
七七八號曳船兼交通船
七四一號曳船兼交通船
第二高運丸
永保丸
第一八一號駆潜特務艇
第一九六號駆潜特務艇

その1で触れたように、空襲でたくさんの一般市民が犠牲となり、北海道と本州の連絡のため必死で働いていた連絡船もすべて沈められました。その悲惨さは一般戦災ホームページ内「函館市における戦災の状況(北海道)」で十分に感じ取ることができます。

橘の林艦長がおっしゃっていたようにまさしく「象(米)に立ち向かったカマキリ二匹」、そしてたくさんのより小さな船がいたのだということは、空襲の被害も含めていつまでも忘れるべきではないと心から感じています。

リンク

参考文献

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『函館と津軽海峡を守るために奮戦した橘型(改丁型)駆逐艦「橘」と、松型(丁型)駆逐艦「柳」のこと。その3』へのコメント

  1. 名前:我妻雅夫 投稿日:2014/06/23(月) 14:46:37 ID:6913dc7f0 返信

     私は、函館水産高校水産食品科の教員です。駆逐艦「橘」のことを生徒と一緒に調査しています。主砲が引き上げられた新聞記事は図書館で見ましたが、艦体の前部が姿を現した新聞記事は初めてです。
     橘通信長だった中塚英二兵曹長の実の弟さんが函館にお住まいで、2年前の橘慰霊祭にご一緒しました。今年も、機関兵だった三留様、水測員だった堀口様、慰霊祭にいらっしゃるとのことです。
     おふたり共、今回の新聞記事はまだご覧になっていないと思います。慰霊祭でお目にかかり、差し上げたいと思います。
     管理人様の文献等の調査能力に感銘しています。ありがとうございました。

    • 名前:ねりこ@ななめし 投稿日:2014/06/24(火) 08:20:42 ID:ef5143d51

      我妻さん、はじめまして。
      ご覧になっていただきありがとうございます。

      少しでも橘や柳のことをたくさんの人に知っていただければという思いで記事をまとめたのですが、専門の勉強をしたことがない私にとって記事として完成させることはかなり勇気がいることでした。でも、このように有り難いコメントいただけて、勇気を出して書いてみてよかったと心から思いました。
      自分の記事が駆逐艦橘の慰霊やそのゆかりの方々の鎮魂の思いへの一助になるということを、涙が出るほどとても有り難く感じています。ありがとうございました。

  2. 名前:葛西 投稿日:2014/07/19(土) 05:12:24 ID:17406fed7 返信

    当時北高の郷土研究部だった者です。
    web上であのレジュメの内容に触れられている記事を見つけて驚きました。
    もう10年ちょっと前の物なのに保存されているとは・・・!

    作った本人ですら実家に残ってるか解らないので、乗組員の方から頂いた手紙の内容を残して貰えているのが非常に嬉しいです。
    もう一人の方からも手紙をいただいていて「戦争のことは話したくありません。人が人を殺すことですから」と言った内容だったのを覚えています。

    この内容で全国大会に行き横浜で発表したのですが、その際にお手紙をいただいた乗組員の方も見学に来てくださったのですよ。
    発表を終えて会場の外に出ると、乗組員の方々が涙ぐみながら握手してくださったのを覚えています。
    僕らは他校の発表があるので会場に残り、乗組員の方々は先に帰られたんですが、みなさんが帰られる際に見た背中は不思議と大きく感じられました。

    懐かしい記憶が色々と蘇ってきました。
    良かったら、レジュメ大切にしてください。
    またいつかどこかの学校に函館郷土研究部ができたら良いなぁ。

    • 名前:ねりこ@ななめし 投稿日:2014/07/19(土) 16:00:38 ID:acb069782

      葛西さん、はじめまして!
      あの素晴らしい資料を残してくださったご本人様にコメントをいただけて、とても嬉しいです。
      参考にさせていただいたレジュメは、函館市中央図書館で保存されていまして、貸し出しはされていませんが館内での閲覧とコピーが可能でした。私はその一部をコピーさせていただきました。
      図書館の蔵書検索で「函館北高等学校郷土研究部」をキーワードに検索するとヒットします。
      http://library.lib-hkd.jp/WebOpac/webopac/searchlist.do

      北高の郷土研究部さんの発表は、幾度か新聞にも掲載されていたので素晴らしい活動をなさってるなぁといつも感銘を受けていました。
      桔梗の比遅里神社の三稜郭など、よく覚えています。

      全国大会でも発表されたのですね。すごいです。そして乗組員の方々もいらしてくださったなんて、本当に素晴らしいです。

      北高郷土研究部のみなさんの研究があったからこそ、こうして橘について、より一層理解を深めることができました。本当にありがとうございました。

  3. 名前:船になりたい 投稿日:2023/07/21(金) 11:40:09 ID:2510c2bca 返信

    日本のこの子達はたったの二人で戦った。そして最後の時まで必死に戦っている
    この子たちは今どんな気持ちなのだろうか
    敬礼

  4. 名前:船になりたい 投稿日:2023/07/21(金) 11:42:40 ID:2510c2bca 返信

    日本のこの子達はたったの二人で戦った。沈没するその時まで戦った。
    彼らには恐怖がなかったのか必死に戦っていたのが伝わる
    敬礼!