函館・道南地方の歴史 -江戸時代の道南・松前藩-

江戸時代の道南(17~19世紀)

松前藩では米がとれなかったので、アイヌとの独占交易権利を持ってもっぱら交易で収益を得ていました。
そのため、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限し、藩に利益が回るような政策をとりました。
また、松前藩領の港に入港した船や荷、人々から関税を徴収して利益としていました。
(写真は山越内関所跡)

さらに、米がとれないということで、当時の大名の格付け基準となる石高も割り出すことができなかったので、幕府は、松前藩が将軍の上洛の時に一万石相当の負担をしたという実績を基に、特例で一万石並の大名という扱いにしました。
またその他の特例として、大名は一年江戸に在府し一年は領国へ帰国する参勤交代が、松前藩は遠国であるということもあり5年に1度や3年に1度という特典もありました。

18世紀前半頃から藩の家臣はこれまで藩が独占してきた交易の権利を商人にまかせ、そのかわりに商人から運上金という税金の一種をもらうようになりました。
場所ごとに商業活動をするようになり、場所を請け負った商人は出稼ぎの和人や現地のアイヌを働かせました。これにより商業主義が一段と高まり、鰊、鮭、昆布などの海産物の生産が増加、漁場も拡大していきました。
(写真は上ノ国町旧笹浪家。18世紀から続いたニシン場の網元。建築年代は19世紀前半。)

18世紀中頃からロシア人が蝦夷地に現れるようになると、防衛上の理由から幕府は1799(寛政11)年に松前藩から蝦夷地の大半を取り上げ、直轄地としました。
幕府は、函館に箱館奉行、松前に松前奉行を置き、東北六藩から出兵させて蝦夷地を警備させました。しかし、慣れない極寒の地での警備で寒さのために凍死したり、栄養不足から脚気や水腫などで死亡する藩士も多数いたようです。
この際、領主松前家は大名から9000石の小名(旗本)に格下げとなり、陸奥国梁川(福島県伊達郡梁川町)に移住させられました。

1811(文化8)年ゴローニン事件が起こるなどしましたが、この事件が収束した後北方が再び静かになったことなどから幕府が政策を変換し、1821(文政4)年に松前藩は蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰しました。幕府直轄時代は、北方危機への不安、不審火の続発、疫病、疱瘡(天然痘)の流行、ニシンの凶漁が続いていましたが、この年からまたニシンが獲れ出し「殿様下(さが)ればニシンが下る」と住民が喜び合ったといわれています。

再び藩が復帰した際には、幕府からの命令で、松前城下に六か所、箱館六か所、江差二か所のほか、白神岬・吉岡村・矢不来(やぎない)・汐首岬にも砲台を設け、各地に勤番所を設置するなど警備を充実させました。その警備を充実させる一環で、幕命により1854(安政元)年10月に松前福山城が完成しました。これは旧式築城では最後に建築されたものとして有名で一時は国宝に指定されましたが、1949(昭和24)年に焼失してしまいました。現在の天守は鉄筋コンクリート造で再建されたものです。

1854(嘉永7)年に日米和親条約が締結し、松前藩下の箱館が補給港として開港されました。それに伴い、箱館を含む渡島半島東部は再び幕府に召し上げられ、代わりに陸奥国梁川等が与えられました。また、同年箱館にペリー艦隊が来航し、箱館湾や内浦湾の測量を行いました。箱館は、1859(安政5)年日米修好通商条約により、日本初の国際貿易港として開港し、外国人居留地も設置されました。こうして箱館にはアメリカをはじめイギリス、ロシア、等から領事が派遣され、外国人の往来が激しくなり、急激に西洋文化が拡大し人口も増えていったのです。当時の中心地であった現在の元町付近では、今でも異国情緒あふれる町並みを見ることができます。
開港に伴って防衛力強化などのため、1866(慶応2)年に幕府は箱館に洋式の城郭である五稜郭を完成させました。

この時代の主な出来事

キリシタン処刑 -1639(寛永16)年-

全国的にキリシタンの布教活動が行われていましたが、1613年(慶長18年)に徳川幕府がキリシタンの禁教令を出しました。これを受けて、全国のキリシタンが徳川幕府の迫害をさけて東北、蝦夷地へと移動し、特に松前の千軒金山に流れていました。
しかし、1637(寛永14)年に島原の乱が起きると、幕府はキリシタンの徹底的な弾圧を始め、幕府からの圧力が強まったために松前藩でもキリシタンを駆逐せざるをえなくなり、砂金掘りのキリシタン合計106名を処刑しました。
(写真は金山(かなやま)番所といい、税を徴収する御番所があったといわれる場所です。この十字架は1960年に殉教の史実を伝えるためカトリック信者によって建立されました。一人歩きの北海道山紀行様よりお借りしました。)

駒ケ岳大噴火 -1640(寛永17)年-

駒ケ岳は今から3万年以上前から噴火を繰り返している活火山です。
この年の大噴火で、山の一部が崩れて山麓の低地を埋めて現在の大沼、小沼ができました。大沼・小沼に点在する島々も噴火によって山が崩れて堆積したもので、こういった地形を流れ山と呼びます。また、東側に崩れた山の一部は噴火湾に達し、大津波を起こして約700名が犠牲になったと伝えられています。
駒ケ岳は現在も活発に活動を続けており、登山禁止となっています。

シャクシャインの戦い -1669年(寛文9年)-

和人の不正交易に対するアイヌの不満が高まり、また松前藩のアイヌ分断政策により部族間の対立も激化した末、シブチャリ(現静内町)のアイヌの長シャクシャインが寛文8年(1668)についに蜂起しました。シャクシャインは松前に軍勢を向け、寛文9年(1669)東西蝦夷地の和人約300人を殺害、略奪をしました。幕府は松前出身の家臣、松前泰広を派遣しこれを征討、シャクシャインは10月23日和議の酒宴中に謀殺されました。シャクシャインは大手門前の四辻で磔になり、竹ののこぎりで切り割られたとも伝わっています。松前城内には、このとき処刑されたアイヌの首謀者14人の首を持ち帰るかわりに耳をそぎ落とし、埋めたといわれる耳塚が残されています。
また、和人でアイヌにくみした者も処刑されました。
この乱は、寛文蝦夷乱と称され、島原の乱以来の大乱とされています。

渡島大島大噴火 -1741(寛保元)年-

1741(寛保元)年に渡島半島西方沖にある渡島大島が大噴火しました。
江差・松前・津軽方面の広い範囲で降灰があり、昼でも暗く灯りが必要なほどだったといいます。この噴火で大津波(寛保津波)も発生し、対岸の熊石から松前にかけて約1500名ほどの犠牲者(2000名、3000名との説も)が出ました。
遠くは朝鮮半島でも犠牲者が出たという話も伝わるほどの大惨事でした。

高田屋嘉兵衛 (1769~1827)

淡路島出身で、箱館で活躍した豪商で北方の開拓や北洋漁業の礎となった人物。幕命によって択捉航路を開いて、択捉島にて漁場を経営し、現地に居住していたアイヌに漁業法を教えて雇いました。
1806(文化3)年の箱館の大半を焼失したという大火では、私財を投じて被害者を救済し、防火のための井戸を掘り竜吐水を寄付、道路を改修するなどしました。
また、箱館周辺の未開地を開拓・植林、凶年のために備蓄米の蔵を建設、シジミ・ハマグリの養殖、港を埋め立てて造船場建設するなど、箱館への功績は計り知れません。
晩年は故郷の淡路島へ戻り、59歳で亡くなりました。

ゴローニン事件 -1811(文化8)年-

当時のロシア人は樺太や択捉、利尻などに出没して略奪暴行をしていたことで、日露関係は緊張していました。
そんな中、北太平洋の水路調査や沿岸測量を行っていたロシア軍艦ディアナ号が国後島に到達、艦長ゴローニンとその部下が上陸し、駐留していた南部藩の守備隊に捕らえられて箱館に送られ、さらに松前に連行されて牢に幽閉されました。
すると、今度はディアナ号副艦長のリコルドが翌年高田屋嘉兵衛の船を襲って嘉兵衛をカムチャッカに連行するという事件がおきました。しかし、嘉兵衛は落ち着いた態度でロシア側の信用を得たので、リコルド副艦長は1813(文化10)年嘉兵衛を国後へ帰し、嘉兵衛の働きで松前奉行はゴローニンを釈放しました。
また、ゴローニンは幽閉中に日本人にロシア語を教え、翻訳を助けるなどしました。

2006年、「ゴローニン」事件に関係した高田屋嘉兵衛、ゴローニン、リコルドの3人の名前がカムチャツカ半島の無名峰に付けられました。
嘉兵衛が抑留されたペトロブロフスクウカムチャツキーに近い、カムチャツカ半島南部のナリチェボ自然公園内にある二つの山に付けられたもので、ゴローニン山(1333m)、リコルド山(1205m)、ゴローニン山の一部の突起がカヘイ岩壁(1054m)となりました。
これは、ゴローニンの7代目の子孫ピョートル・ゴローニンさんが、ゴローニンとリコルドの生誕230年に当たる2006年に「ゴローニン事件を後世に伝え、友好の証を刻みたい」とロシア地理学会を通してカムチャツカ政府に要請し、これを受けて政府が命名したそうです。
同じく嘉兵衛7代目の高田嘉七さんは「ロシアの人たちが歴史を忘れないで大事にしようというのはいいこと」と喜んでいるとのことです。

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