大沼・駒ケ岳:七飯町

道南の秀峰駒ケ岳とそのふもとの大沼には、いくつかの伝説が残されています。

相原周防守季胤(あいはらすおうのかみすえたね)

アイヌの人達がほう起し松前が破れた時、相原周防守季胤は、辛うじて二人の姫を連れて逃げた。しかし追いつめられたので姫は湖水に身を投げた。
季胤も後に続こうとしたが、気にかかるのは愛馬である。現在も残っている鞍掛岩の所で、馬に逃げろと言いきかせ、自分は湖底深く沈んでしまった。
このため駒ケ岳と名付けられた。愛馬は今でも生きていて、季胤の入水した7月3日になると、毎年いななきが響くという。

アイヌの伝説

アイヌの人たちはこの山をカヤベヌプリといい、カヤベはカヤウンペシュ(帆のある崖)がなまったものなので、駒ケ岳を帆をかけた船に見立てたのだろうという説もある。
また、アイヌの義経伝説の一つで、義経が足高蜘蛛に教えられて一度天に昇ったときに島造りの神から火をもらい、その火が蝦夷地での初めての火となったという。 その時、神は天からこの山に火を降らしたので、以来、この山が噴火するようになったという。

神馬伝説

文政8年(1825)駒ケ岳に神馬が出没するという噂が立ち、当時の松前藩主道広は箱館の役人に調査させた。 すると、付近の村人で実際に目撃した者がいて、長いたてがみだとか、栗毛だとか、青毛、黒鹿毛、ものすごく素早い、普通の馬では駆け上れないところにいた、尾は短い、1頭だ、2頭だった、などなど諸説が出た。 翌年、馬の好物を置き、おとりの馬も放ってみたが、結局捕まえられなかった。
このことが藩主道広と親交のあった滝沢馬琴の耳にも届き、馬琴の言うのには、古今東西に神馬を捕らえたものの祟り話があるので、 捕らえるのはやめたほうがよいと忠告したため、道広はついに断念したという。

大沼の主

明治維新間もない頃、函館のたなご町に筆職人の魚釣治兵衛とあだ名された釣り好きの男がいた。
ある日、彼が大沼で釣りをしていると、大きな手ごたえがありぐっと釣竿を引き上げると、釣竿の先がぽきりと折れてしまった。
治兵衛は大物に違いないと再び糸を垂れたところ、間もなく小さな鰻が釣れた。
幸先がよいと続けて投げると、今度はやや大きな鰻が釣れ、3度目にはさらに大きな鰻が釣れた。
どんどん釣れるので、夢中になって舟をこぎ湖水に出たところで、周囲の水が重く澱んでいることに気づいたが、時すでに遅し。
恐ろしい大鰻が波を蹴立てて治兵衛に迫ってきた。
あわてて舟をこいで逃げ帰ってきたが、帰宅しても恐怖に苛まれて終日うなされ続けてそのまま死んでしまった。

その後、大沼の滝に大鰻の死体が発見された。付近の村人が集った時に土地の古老は、主とは魔性のもので、人の目に触れると力を失って死んでしまうと告げた。
そこで、人々は祟りを恐れて手厚く葬ったという。
それからは、大沼の主は鰻だと伝えることとなった。

不思議なけもの

幕末の頃、七飯の薬園の管理をしていた栗本鋤雲(じょうん)が、万延元年(1860)に江戸の医師の森立之にあてた手紙に、以下のような内容が書いてあったという。

「駒ケ岳のふもとのあたりに、不思議なけものが出るという。大きさはオスの牛くらい、額に一尺あまり(30センチ以上)の角があり、時々鹿部川を泳いでいるという。 ウグイが上流に上る時なので、その群れを追っているらしく、川を下る時には、その角がはっきりわかるという。 水に体を沈め、すごい速さで進むという。
私の友人のイギリス人とフランス人の二人が見に行ったが、里の人たちはあれは山の神だから話をすると祟りがあるかもしれないと、何も話してくれなかった。 二人の考えでは、そのけものは『サイ』に違いないとのことで、私は鉄砲のうまい侍を現地に留めておいた。」

その後、サイが見つかったということもなく、人々がそんな騒動もすっかり忘れていた頃、明治10年頃(1877)に再び駒ケ岳に不思議なけものが出るという噂が広がった。 あちこちの畑が荒らされたがその正体がさっぱりわからなかったという。

明治14年(1881)2月20日の朝、尾白内村(現在の森町)の西川勘五郎という人によって、ついに一頭のけものが捕らえられた。
体長167センチ、体重100キロ以上で、全身茶褐色の毛におおわれ、後ろに反った8センチほどの牙を持った、まるでいのししのようなけものだった。 駒ケ岳でいのししが捕れたというニュースは全国に流れ、北海道ではそれまでいのししはいないとされていたため、学界では大騒ぎとなった。

レポートと解説

駒ケ岳は「渡島富士」とも呼ばれる秀峰。活火山。現在火山活動の活発化のため、登山できません。
駒ケ岳は過去、大きな噴火を繰り返しています。内浦湾の別名噴火湾はこの山の噴火により命名されました。

相原周防守季胤(生年不詳~1512年)について

松前の小館館主の後、大館館主となりました。アイヌの娘10数人(一説には20数人)を矢越岬沖に沈めたため、アイヌの攻撃を受けて戦死したとも、永正10(1513)年に蠣崎光広に攻められ自刃したとも言われます。どちらにせよ、これは密かにこの地を狙っていた蠣崎氏の陰謀と言われています。
ちなみに、七飯町には城岱(上藤城カイグ山・詳細不明)に相原周防守の砦跡といわれる土塁があるそうです。この館を境木前館(さかきまえたて)といい、相原政胤・季胤父子がいたと、「北海道旧纂図絵」にあります。

大沼に浮かぶ相原島に、明治36年建立昭和29年再建の、相原周防守政胤の碑があります。(ボートでなければ接近不可能)
最初に建立された当時は、地元の人々に「相原さん」と崇められ、毎月1日と15日に地元の人が参詣して酒などをお供えし、観光客が来るように祈ったといいます。しかし、戦後はその風習も消えてしまったとのことです。

不思議なけもののその後

いのししのようなけものは、現在剥製にされて市立函館博物館にて、入り口から入ってすぐ右側のコーナーの奥に、保存・展示されています。
(特別展等の開催中などには撤去されていることもありますので、要確認)このけものは、何と90年もの間「野生化した豚」なのか「野生のいのしし」なのか、論議が続けられましたが、「野生化した豚だろう」という結論に落ち着いたとのことです。先日、この剥製を見に行きましたが、限りなくいのししっぽかったです。
「豚が野生化した」とはいえ、硬い茶褐色の毛が全身に生えて、牙が生えてくるまで姿かたちが変化するなんて、かなりの長い年月が経過しないと、ならないのではないでしょうか。
そうなると、「いつから存在していたのか」「繁殖はしていないのか」など、またまた疑問が湧いてきます。

なんて思っていたら、2004年1月に以下のような事件が・・・。

■海岸に北海道にいないはずのイノシシが!
中歌(元浦2区)の海岸にイノシシが打ち上げられました。
北海道で生息が確認されていないイノシシが、瀬棚に打ち上げられたというのは大変不思議なことです。体長は約180cmで体重は約220kgありました。
珍しいケースなので頭部のみを標本にすることができないか検討しましたが、実際に処理できる方がいないことから、このイノシシは漂着物として処理されました。(瀬棚町fメールより抜粋)

この記事は北海道新聞にも載っていまして、そこには北海道でのイノシシ目撃談や歴史について詳しく書かれていました。

専門家は「イノシシが道内に野生化している可能性を示す非常に珍しい事例」と話している。
北海道野生動物研究所所長は「昭和40年代に食肉用としてイノシシが、全道的に飼育されたことがある。逃げ出すなどして野生化したことは十分に考えられる。
北広島市では1976年12月に交通事故での死亡例があり、確認できなかったが昨年10月にも北広島で目撃情報があった。」と話す。
今回の死体について所長は、「ほとんど痛んでいないことから漂流していたのは5,6日以内。本州から流れてきたならもっと痛んでいるだろう」とした。(北海道新聞より)

ということは、イノシシは北海道でも繁殖可能ということになるのでしょうか。
豚さんよりは毛が多いからあたたかそうだし・・・。

さらに、古代の遺跡からは骨や土製品のイノシシが発見されていて、もともとは北海道にいたという説と、本州から骨肉や生きた仔を搬入しただけという説とがあるそう。
イノシシの幼獣をかたどった高さ4.2cmの土製品は、函館市旧恵山町尻岸内の日の浜遺跡から出土しています。
このイノシシの土製品の画像は函館市博物館サイトにて見ることができます。

大沼の主~うなぎは本当にいないの?

七飯町歴史館の学芸員さんにお聞きしたところ、学芸員さん自身は見たことが無いものの、うなぎは生息しているだろうとのことでした。(2011.8.18追記)

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『大沼・駒ケ岳:七飯町』へのコメント

  1. […] 海道ではそれまでいのししはいないとされていたため、学界では大騒ぎとなった。「遊ぶべ!道南探検隊」より引用以上、進さんがエリーにイノシシ肉を差し入れしたというエピソード、 […]