長慶天皇(汐泊チャシ):函館市

汐泊川の汐泊チャシは、室町時代の成立と推定されているのだが、このチャシから仏像、天国の剣、勾玉、そして菊花の紋のついた皿が出土したため、98代天皇長慶天皇(1343~94)陵かと騒がれた。新聞には前方後円墳だと報じられたこともあったという。

高さ45m、全長200m、幅120mのチャシで、北、西、南が汐泊川に囲まれていて空堀が掘ってあり、頂上は方形の平坦地となっている。下には、石組みの井戸跡もある。

レポートと解説

チャシの西から南の汐泊川との間からは、これまでに刀や刀の鐔(つば)が出土しています。
チャシの西の先端部には小さな祠(ほこら)が祀られていました。
この祠には小さな金銅の仏像があって開拓に入ったころ掘り出されたものですが、現在は祠がなく、昭和初期に尻岸内の神社に移されたと伝えられています。
この小さな仏像は、鎌倉から室町時代に兜(かぶと)の中に入れられた護符ではないかと思われています。

鐔や刀はチャシと水田との間に溝(みぞ)を掘ったときに出土したといわれていますが、水田から出土した刀2振を見ると錆化が進んでいて時代決定は難しく、大きさは脇差し程度のもの。
出土品の状態を考えると、これらの出土地点は墓地などではなく、古戦場の跡と推定されているそうです。

汐泊川チャシは、汐泊川に溯上する鮭、鱒を対象とした拠点とも考えられますが、その構造が山城的で、武器などの出土もあり、戦いを目的とした砦、あるいほ見張場としての性格も強いとの説が有力です。
蝦夷の反乱があった志苔館は、汐泊川チャシの西約3キロメートル余りのところにあり、函館やその周辺で砦としてのチャシは、汐泊川チャシ以外に発見されていないことも、この説を後押ししています。
※参考:函館市史

すぐそばに栃の木神社があります。


長慶天皇(1343~94)

長慶天皇は、江戸時代からその存在が疑問視されていた天皇で、大正時代になって有力な存在説が発表されて、やっと皇統譜に列せられました。
京都市右京区にある、「嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)」が長慶天皇の陵所となっていますが、これは昭和19年に天皇にゆかりの深かった、天竜寺塔頭慶寿院跡地に陵所を整備したものです。
この天皇の在位中は南北朝時代(南朝3代目)ということもあり、晩年を伝える資料が残っていないため、現在に至るまで陵墓は発見されていません。
しかし、長慶天皇が弟の後亀山天皇(南朝最後の天皇)に譲った後、南朝へ協力してもらうために、各地の南朝側についている武将のもとを訪ねていたため、長慶天皇陵と噂される場所は全国各地にあり、その数20箇所にも及ぶといいます。
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