勝山館跡

後の松前(蠣崎)氏の祖である武田信広が、15世紀後半に築いた館とされ、道内に残る中世の館跡では最大のもので、国指定史跡となっています。

昭和54年以来の発掘調査の結果、約4万点に及ぶ貿易陶磁、アイヌの人々が使ったといわれる500余点の骨角器や宗教文化の品々、生活用具等合わせて10万点余りが発掘されています。

「館」とは中世の豪族が構築した砦で、自然の山川を利用して土塁・空濠を回したものが多いようです。「新羅之記録(松前藩)」に12の存在が記され、道南12館などと呼ばれますが、この他にも館はあります。
また、この館がある夷王山には夜明けの塔やレストハウス、キャンプ場もあります。
勝山館跡ガイダンス施設もオープンし、さらに詳しく歴史を知ることができます。

★ 武田信広 (1431~94)
松前氏の祖。出自に諸説あるが、松前家の記録では、若狭(福井)後瀬山城主武田信賢の長子で幼名彦太郎。粗暴で家を継げず宝徳3年(1451)家臣佐々木繁綱・工藤祐長ほか三人と出国、足利に下り、享徳元年(1452)陸奥の田名郡にきて、蠣崎の地を拝領し、同3年8月、安東政季を教唆して河野政通・相原季胤らとこれを奉じて蝦夷島に渡り、先に移住していた上ノ国花沢館主蠣崎季繁のもとに住んだという。
政季が失地回復のため秋田に赴いた後、アイヌたちの蜂起があり、道南にあった諸氏の館は破れたが、茂別館(上磯)と信広らの守る花沢館は屈せず、信広は七重浜(上磯)でコシャマイン父子を射殺して乱を治めた。
蠣崎氏は喜んで太刀を与え、季繁は養女を信広と結婚させて蠣崎の家督を継がせたという。
信広は洲崎館を新築して移ったが、晩年は第2花沢館(勝山館)で没したようである。
しかし、松前家の記録は粉飾で、事実は狡猾な浪人が上ノ国蠣崎氏の食客となり、奸才で戦功を立て、子の光広とともに道南を統一していったものとする説もある。
(函館・道南大事典より)

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