中島三郎助父子最後之地

昭和6年(1931年)、箱館戦争に散った中島父子を記念して千代ヶ岡陣屋付近の土地が中島町と名付けられました。現在中島町には、中島三郎助父子最期の地碑が建っています。

中島三郎助は、浦賀(神奈川県)に生まれ、浦賀奉行与力で、名は永胤といいます。
嘉永6年6月(1853年7月)にペリー艦隊(黒船)が日本浦賀沖に来航した際、与力という身分にもかかわらず、それよりも身分の高い「副奉行」であると称して通詞堀達之助を連れ、日本人では始めてペリー艦隊の旗艦サスケハナ号に乗船しました。
その後能力を買われて、浦賀奉行などの重役に代わって、香山栄左衛門とともに米国使者の応対を勤めています。アメリカ側の記録では、船体構造、搭載砲、蒸気機関を入念に調査したことから、まるで密偵のようだと記されています。当時、彼は砲術を学んでおり、実際に大砲付の軍艦を製造するなどしていたための言動でした。

のち長崎海軍伝習所で射撃と砲台築造などを学び、木戸孝允(桂小五郎)に砲術を教えたこともあります。戊辰戦争では、幕艦開陽丸の砲術指揮者として榎本武揚らと箱館に走り、蝦夷島政府の箱館奉行並となって、千代ヶ岱陣屋(現在の千代台公園)の守備を指揮しました。
明治2年5月16日同陣屋は新政府軍に攻撃され落ちましたが、三郎助は他所の戦いで負傷していたにもかかわらず、三重弾を発射させて数に勝る新政府軍に多大の打撃を与えました。しかし、降雨のため頼みの綱の大砲が着火せず、抜刀して血闘に及びましたが、ついに敵弾に倒れました。

子の恒太郎(22歳)と房次郎(19歳)はこれを見て敵中に切り込み、数人を斬り殺しましたが敵と刺し違えて倒れたそうです。

彼は常々、千代ヶ岱は自分の最後自決の場所といっていたそうで、懇意にしていた榎本が再三千代ヶ岱守備隊の全滅を心配し、五稜郭への撤退を申し出ていますが、父子三人にきっぱり拒絶されたという話も残っています。

明治24年(1891年)、中島三郎助の出身地である横須賀市浦賀に、中島三郎助招魂碑が建てられましたが、その篆額(碑の上部に篆書体の文字で彫られた題字)は、懇意にしていた榎本が書いたものです。
また、木鶏と号する俳人でもあり、咬菜園(当時の有名な庭園)や五稜郭で句会を開き、「ほととぎす我も血を吐く思いかな」という辞世句を詠んだといわれていますが、真相は定かではありません。彼を師と仰いでいた木戸孝允は、いたくその死を惜しんだそうです。
世界情勢にも明るく、日本の造船の先駆者でもある彼が、勝ち目はないだろう戦に赴いた理由は何だったのでしょう。残されている、「主家(注:徳川家)報恩ノ為ニ出陣スル也」 という文章からは、ひたすら徳川家のために戦うのだという強い決意が読み取れます。それ故に、「義士」と呼ぶ人も多いのです。
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『中島三郎助父子最後之地』へのコメント

  1. 名前:匿名 投稿日:2013/11/17(日) 21:46:56 ID:df41f388a 返信

    神奈川県横須賀市から発信しています。
    中島三郎助父子について、函館まで話が及ぶなんて思いもしませんでした。
    さっそくリンクさせていただきましたのでご了承願います。

    私のブログに父子の墓及び三人の写真も掲載しましたので、見ていただければありがたいです。

    • 名前:ねりこ@ななめし 投稿日:2013/11/25(月) 08:20:30 ID:8870f964d

      リンクして頂きありがとうございます。
      横須賀に親子揃ってお墓が建てられているのですね。
      函館では毎年中島三郎助まつりも行われていて、今でもその生きざまはしっかりと市民の心に根付いていると思います。