汐首岬砲台跡(旧戸井町にある要塞跡)

函館要塞は、明治29年頃から函館港と函館湾を守備することを目的に要塞設置が計画され、函館山全体が要塞となりました。

昭和に入り、守備範囲を広げる為に竜飛崎砲台及び汐首岬砲台及び大間崎砲台を完成させて、昭和2年名称を津軽要塞と変えました。
昭和4年(1929)6月に工事が始まり、同8年に竣工しました。これにより、要塞は函館だけではなく津軽海峡全体を守ることとなりました。

写真は、汐首岬第一砲台の左翼部砲側庫跡で、函館市史によるとこの周辺には全部で30cm榴弾砲が4門配備されていました。
当初の予定では、汐首崎第1砲台には7年式30cm長榴弾砲計8門が配備される予定でした。しかし、刻々と変わる国際情勢により計画も再検討され、「汐首崎第2砲台」が昭和13年に起工し、途中で備砲を45式15cmカノン砲(改造固定式)2門から 96式15cmカノン砲4門に変更し、15年6月に竣工しました。逆に同年7月、汐首崎第1砲台の30センチ榴弾砲は撤去されました。実際の砲台の跡は、この砲側庫跡の左右にある更地です。

目を引くのは、要塞跡に残る迷彩塗装。
建設当時はまだ上部に植物が繁茂していなかったでしょうが、上空からは発見されにくかったものと思われます。

砲台砲側庫左翼部は出入り口が金網でふさがれていますが、右翼部は写真のように付近の住民の物置となっており、内部を見ることができます。
しかし、この奥の暗闇からは犬のうなり声が・・・。
どうやら犬を飼っている様子。しかもそのお犬様の繋がれている鎖は、一体どれほどなのかわからない有様。
バイオハザードですよ。
というわけで、内部探索は諦めてその場を後にしました。

ちなみに、こちらの敷地は市営住宅または北海道戸井高等学校(道立)と隣接しているので、所有者は北海道もしくは函館市と思われます。
付近にはこの戦跡を伝える看板や標識などのものは一切ありません。
また、10年以上前には戸井高校テニスコート造成のために、残存していた厠が破壊され中央掩蔽部の出入口も埋められてしまったとのこと。

写真の砲座跡にはゴミが投棄され、すぐ横にあった煉瓦造りの構造物は崩れ、以前の姿ではありませんでした。
このままでは大切な遺構が消えてしまうのも時間の問題のような・・・。
戦争について、平和について、人間の歴史について、いろいろなことを考えさせられる生きた教材ではないかと思うのですが。

汐首岬第二砲台、砲弾倉庫、観測所、地下火薬庫などは戦後、GHQの手によって爆破され、その痕跡はほとんど残っていません。 (2008.8探訪)
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