松前藩の始祖、武田信広から19代にわたり藩主、その室や子などが眠る墓所で、55基の墓碑が並んでいる国指定史跡です。
写真は石造の屋形風覆屋で、中に五輪塔形式の墓がおさめられています。また、キリシタン信仰に関係があるとみられる織部型灯籠が2基ある他、 6代藩主盛広の室椿姫の石室の横にある五輪塔の各輪にT印の刻印があったり、石室内部にも「マリ」の墨書が見つかっています。これらキリシタンらしき墓石に関する記録や言い伝えは何一つ残されていません。
上の織部型灯籠の台石にTの刻印があります。(右上が拡大写真)
下は10世矩広の長男周広(1692・元禄5~1704・宝永元年)そばにある織部型灯籠。 同時代のものなのかどうかはわかりません。
竿部分の張り出しが十字架をイメージしていて、下部のレリーフはマリア像を模していると言われています。
キリシタンについて
キリシタンとはキリスト教の旧称、またはその信徒のことも指します。
北海道では1614(慶長19)年のイエスズ会年報に蝦夷島で5人洗礼を授けたとあるのが、蝦夷キリシタンの初見とされています。 同年キリシタン禁教令が発令されましたが、1618年頃にはアンジェリス、カルワーリュ神父が渡来して布教活動を行いました。 この禁教令で捕らえられたキリシタンが津軽に流刑され、それが松前の金山に入ったといわれています。
松前藩は当初キリシタンには寛容で、それは金山で労働するものたちに税をかけていたためといわれています。 つまり、金山の人口が増えれば増えるほど、金が採掘されるほど藩が潤う仕組みになっていました。
しかし、1637年に島原の乱が起こると幕府からのキリシタンに対する締め付けが強くなり、 1639(寛永16)年、大沢金山で50名、千軒金山で50名、上ノ国石崎へ逃れた6名の合計106名を松前藩が処刑するという事件が起こりました。
これ以上の詳細は文献が失われているため不明ですが、この史実を後世に残すために 1960年にカトリック信者により大千軒岳金山番所跡に十字架が建てられ、毎年夏に殉教者のミサが現地で行われています。
(金山番所の写真は「一人歩きの北海道山紀行様」よりお借りしました。)
[google-map-v3 width=”350″ height=”350″ zoom=”12″ maptype=”roadmap” mapalign=”center” directionhint=”false” language=”default” poweredby=”false” maptypecontrol=”true” pancontrol=”false” zoomcontrol=”true” scalecontrol=”true” streetviewcontrol=”true” scrollwheelcontrol=”false” draggable=”true” tiltfourtyfive=”false” addmarkermashupbubble=”false” addmarkermashupbubble=”false” addmarkerlist=”41.43251156642554,140.10789155960083{}binoculars.png{}松前藩主松前家墓所” bubbleautopan=”true” showbike=”false” showtraffic=”false” showpanoramio=”false”]