耳塚:松前町

松前藩の苛酷なアイヌ民族支配強化に対し、アイヌの人々が団結して抵抗を示したのが、寛文9年(1669年)のシャクシャインの戦いだった。

はじめはアイヌ側の優位で戦いが経過したが、松前藩は幕府や津軽藩の援助を得て新冠(現在の日高地方にある町)まで陣を進め、シャクシャインたちをだまし討ちにして戦いが終結した。
耳塚は、このとき処刑されたアイヌの首謀者14人の首を持ち帰るかわりに耳をそぎ落とし、埋めたといわれるところである。

レポートと解説

このような耳塚は本州にもあるそうで、秀吉の朝鮮出兵の際に持ち帰って作ったという京都豊国神社門前にある耳塚は、耳の悪い人が参ると良くなるという言い伝えがあるとのこと。

復元された松前城の裏側に、ひっそりとあります。木の陰にあって目立たない雰囲気です。元は本丸すぐ横の大手門傍らにあったそうですが、城の裏側に移されています。隣には「闇の夜の井戸」があります。
藩の黒歴史の証左であるこの2つの遺構は、あまり観光客が行かなさそうな場所にありm(ゲフンゲフン)。

シャクシャインの乱について

江戸時代の有名なアイヌ蜂起。
和人の不正交易に対するアイヌの不満が高まり、また松前藩のアイヌ分断政策により部族間の対立も激化した末、シブチャリ(現静内町)のアイヌの長シャクシャインが寛文8年(1668)に蜂起。
シャクシャインは松前に軍勢を向け、寛文9年(1669)東西蝦夷地の和人約300人を殺害、略奪をした。
幕府は松前出身の家臣、松前泰広を派遣しこれを征討、シャクシャインは10月23日和議の酒宴中に謀殺された。
シャクシャインは大手門前の四辻で磔になり、竹ののこぎりで切り割られたとも伝わる。
また、和人でアイヌにくみした者も処刑された。
この乱は、寛文蝦夷乱と称され、島原の乱以来の大乱とされている。
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