松前家第十世・6代藩主矩広(のりひろ)の時代、主君の乱行を見かねて諌言した丸山久治郎兵衛(一説に愚次郎兵衛や大沢多治郎兵衛)という忠臣がいた。
しかし、丸山の失脚を願う悪臣たちが、殿の鉄扇が井戸に落ちたと偽り、丸山が謀られたと知りつつも井戸の底へ拾いに行っているときに、大石を落とし惨殺してしまった。
その後矩広の子が怪死したりと、不幸が続出するので、丸山久治郎兵衛の怨霊の祟りだということで、井戸を埋めることにした。しかし、いくら土砂を入れても埋まることはなかったという。
レポートと解説
もとは本丸御門の前にあったそうですが、現在は場所が移されて、本丸裏の人目につかない場所にあります。耳塚の並びです。
6代藩主矩広といえば、その治世中にシャクシャイン事件や門昌庵事件が起きるなど、 30歳代までは藩政が混乱していた模様です。
その混乱時代、丸山以外にも忠臣のお話が残されているので、ご紹介します。
同時代に村上広峰という家老がいて、やはり矩広の乱政を諌めようといろいろ苦心したが聞き入れてもらえませんでした。
あるとき、ついに矩広の前で切腹して自分の腸を白扇にのせて差し出し、「村上広峰一命を捨ててお諌め申す」と言って倒れました。
さすがに矩広も改心して、以後は善政を執行しました。
後に広峰神社として祭られたそうですが今はなく、坂にその名を残すのみとのことです。
丸山久治郎兵衛の逸話
この丸山久治郎兵衛(一説に愚次郎兵衛や大沢多治郎兵衛)は、腕利きの武士で参勤交代のときに藩主について江戸へ行きました。
ある夜、松前藩邸を出て歩いていると、一人の武士らしき者が遠くから近づいてきました。
そして、そのすれ違う一瞬その武士らしき者は突然刀を抜き、久治郎兵衛に斬りつけてきました。ところが、久治郎兵衛がすばやく身をかわしたので、傷はほとんどなかったのです。
その武士は確かに斬ったと思って刀を調べたが、全く血の痕もなく、久治郎兵衛の手練に驚嘆しました。しかも、一体どこの誰なのか知りたかったので、久治郎兵衛を尾行すると、尾行されていると知らずに久治郎兵衛は松前藩邸へ帰っていきました。
武士は、どうしても久治郎兵衛の名前を知りたくなり、毎夜藩邸を見張り続け、ついにある夜会うことが出来、互いに名を名乗りあったといいます。その武士は南部藩の武士だったそうです。
このことで久治郎兵衛の名はさらに知れ渡り、上に取り立てられましたが、その態度は全く変わらずに忠勤に励み、槍術にあっては非凡の誉れがあったそうです。
[google-map-v3 width=”350″ height=”350″ zoom=”12″ maptype=”roadmap” mapalign=”center” directionhint=”false” language=”default” poweredby=”false” maptypecontrol=”true” pancontrol=”true” zoomcontrol=”true” scalecontrol=”true” streetviewcontrol=”true” scrollwheelcontrol=”false” draggable=”true” tiltfourtyfive=”false” addmarkermashupbubble=”false” addmarkermashupbubble=”false” addmarkerlist=”41.429945546257265,140.10820269584656{}textiles.png{}闇の夜の井戸:松前町” bubbleautopan=”true” showbike=”false” showtraffic=”false” showpanoramio=”false”]