箱館戦争に関するいくつかの史跡をまとめました。
東照宮の手水石
東照宮は箱館戦争当時、現在の神山神社の場所にありました。
旧幕府軍の台場ともなっていたため激戦地となり、新政府軍による攻撃で東照宮は炎上、現在地に移転しました。
手水石には、当時の弾痕が残されています。
四稜郭
西洋式城跡。函館市陣川町。五稜郭の北方約3キロメートルの丘上傾斜地にあります。
箱館戦争時、五稜郭の榎本軍は戦況が不利になったので、明治2年(1869)4月、北方防備と万一の退却地にとの考えから、ここと隣接の東照宮境内とに台場を急造しました。士卒200名に付近村民100名を徴用して数日で造ったといわれています。
東西103.6メートル、南北65.5メートルの地に、高さ3メートルに幅5.4メートルの土塁をめぐらし、深さ0.9メートルに幅2.7メートルの外空濠があります。神山台場や新五稜郭と呼ばれましたが、四稜郭の呼称が定着したそう。
4隅(稜)に砲座があり、築造間もなくの5月11日政府軍の猛攻撃にあい、榎本軍守兵は五稜郭へ敗走陥落。大鳥圭介の設計と伝えられています。昭和9年(1934)国の史跡に指定されました。
極楽寺
土方歳三を埋葬したのではないかという説もある、極楽寺。
ここは、元々近くの刑場で処刑された人の霊を弔うため、近郊の有志が「念仏堂」を建てた場所。
「横難横死萬霊塚」などもあり、思いがけない災難や非業の死を遂げた人のための碑であり、このことから、この場所には古くから庶民たちの墓所であったことが伺えます。
そのような性格の寺なので、箱館戦争での戦死者を供養するため、諸国戦死供養塔も建てられました。
旧大野町の箱館戦争無縁墓
明治元年(1868)10月24日の早朝に、大野を戦場として戦死した福山藩の戦死者8名中、千賀猪三郎と松本喜多治の両藩士の墓がこの地に残っており、他の2名の藩士については未調査ですが、無縁仏としてここに葬られているといわれています。
この無縁墓地は、大野唯一のもので、行路病者も葬られているということです。
箱館戦争無名戦士の墓
向野(小川「こがわ」地区)、澤村家の水田の畦に、明治元年(1868)から翌2年にかけて繰り広げられた箱館戦争の犠牲者の墓があります。当時、市渡村の名主は沢村久之丞で、箱館戦争勃発と同時に榎本軍が陣を構えるなど、いや応なしに戦争の渦中に巻き込まれ、名主として大変苦労したといいます。
澤村家は間口が10間(約18メートル)もあり、家の半分は土間だったため、明治元年の冬から翌2年の春にかけて、榎本軍が下二股口(台場山)などに陣地を構築した際は、作戦本部に充てられました。
土間には銃が4,5丁ずつ組んで立てられ、澤村家は幹部の宿舎にもなったそう。
この一帯は、澤村家の本家や分家が集まる篤農家ばかりで、水田の畦に直径80センチほどの自然石を置いて、「箱館戦争無名戦士の墓」としてまつっています。
毎年8月13日には、一族そろって供養を続けていますが、この戦死者が新政府軍のものか榎本軍のものかははっきりしていません。
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