その2です。
その1をまだご覧になっていない方は、わたしを寿楽園に連れてって その1をどうぞ。
前回は読んだけど、どんな感じだったっけ?という方向けに、おおまかな図を用意しましたのでご覧ください。
前回のあらすじ
ざっとあらすじを紹介すると、こんな感じ。
・・・しばらくぶりの冒険に、ちょっとはしゃいじゃった。
すみません。
それでは、はじまりはじまり~。
夢にまで見た・・・?
開けた視界の先には、これまで全く見当たらなかった人工物があった。
鉄製の巨大なカーテン状の構造物。その手前には駐車場だったと思しき広場があった。
どう見ても何らかの門だろう。
そして、門の傍には「連絡先 ○○ホテル ○○-○○○○」と書かれた看板が立てられていた。
函館市内のとある観光ホテルの名前と電話番号。この看板が立てられてからは大分時間が経っていそうだが、まだ所有者は変わっていないのだろうか。
奥には建築物も見える。
・・・というより、果たしてここがあの寿楽園なのだろうか。
何もない原野に石造りの門や石碑が散在しているようなイメージを勝手に描いていたのだが、これは一体・・・。
念のため広場の周辺などをぐるっと見渡してみたが、庭園を想起させるようなものは見つけられなかった。
子供連れということもあり、あまり車から離れて長時間行動することはできないため、必要最小限の装備しかない。
よって、車から見える範囲までが今回の探索の限度だろう。
憧れていた石造りの門とは程遠い、鉄製のゲートをくぐって、奥に見える建築物に近づいてみる。
軽食喫茶・・・。
これは「上磯町歴史散歩」にあった、「近年、復興整備されつつある」という文章の裏付けになるのだろうか。
どう見ても現在は営業していない。
そして、この店舗だった建物の周辺にもかつての庭園を思い起こさせるものは何も見つけられなかった。
この奥にも回ってみたが、この通り草に覆われてしまっていた。
少し進んでみたが、これ以上進むと車から遠くなり過ぎてしまうため、断念。
ふ じ む ら と う そ ん
結局、当初の目的である石造りの門や、島崎藤村の石碑は見つけることができなかった。
リベンジをするなら、植物の勢いが衰えている初冬や雪解け後に探索すべきだろう。
そうすれば、また違った結果になるかもしれない・・・。
帰りの廃道は、一度通った道という安心感で周囲の景色を見る余裕もできたのだが、やはり緑色の自然の力は圧倒的で、新たな発見は何もないまま元の砂利道へ戻ったのだった。
走りやすい道へ出ると、冒険の後の安堵感や高揚感から、友北が学生時代に「島崎藤村」の事を「ふじむらとうそん」と間違って言ってしまった友人の話でひとしきり盛り上がった。もう何度も聞かされているのに、ついつい笑ってしまうエピソード。何度も繰り返し「ふじむらとうそん」のキーワードが現れる。
そうして爆笑しつつ進んでいくと、先程はいなかったトラックが前方に見えた。運転席にはつなぎを着たおじさんがいた。どうやら林の手入れをしているらしい。この辺りには詳しいのだろうか。
友北が、車を降りて おじさんの運転席へ向かった。怪訝そうな顔をしているおじさん。
「すみません。ちょっとお聞きしたいのですが。」
いつもは面倒がるのだが、わざわざ車を降りて情報を得ようとしてくれている。
大丈夫、あなたならできるわ!
「あのー、この辺りに『ふじむらとうそん』に関係する『寿楽園』っていう・・・」
;`;:゙;`(;゚;ж;゚; )ブッ
オイイィィ!「ふじむらとうそん」は、おいらたち以外にはわからんだろおおおおぉぉ!
間違ってるよ、言い間違ってるってばぁぁぁ。
それじゃ伝わんないだろ、「寿楽園」が。
おじさん「ああ、はいはい。そこにあったよ。でも今でも残ってるかどうか・・・。」
ちょ、奇跡的に通じてるよ!
なにこれ、何で通じたの?もしかしておじさんニュータイプなの?
奴との戯言はやめろ!とか言った方がいいの?ねえ。
ひとしきりおじさんと話していた友北が車に戻って来た時、いの一番に「ふじむらとうそん」の件について尋ねてみたが、本人は全く気づかずに話していたらしい。ぷぷぷ。
しかし、この友北の聞き込みによりほんのちょっとだけ寿楽園についてはっきりしたことがあった。
あの場所は確かに寿楽園だということ。
何年前かはわからないが、あの場所をもう一度綺麗にして商売をしていた人がいたこと。
まだその人があの場所を持っているはずだが、ここしばらくは何も手入れがされていないこと。
行ってもいいと思うけど、道も整備してないから入れないんじゃないかなぁということ。
となると、大正期から昭和初期にかけての素晴らしい庭園の跡は、どれほど残されているのか。
石碑や大小さまざま持ち込まれたという名石、心惹かれる立派な門は在りし日のままになっているのかどうか。
もちろん自然に還ってしまっている場所がほとんどだろうが、再建しようとしていた方は寿楽園にどのような完成形を見ていたのかな・・・。
往時の人々の夢と憧れを背負った庭園は、太平洋戦争で一旦その幕を閉じた。
しかし、再び昭和の終盤に一瞬誰かの夢として輝いたのだろう。
そして今なお、僅かな人たちにうっすらとその残り香を漂わせていながら、再び消え去ろうとしている。
夢の跡と土地の記憶
その後、いろいろ調べてみた。
葛登支岬のあたりに、「ヤマゼン高村の稲荷様」と呼ばれる今にも朽ち果てそうな稲荷様があると、「上磯町歴史散歩」にはある。それによると、葛登支付近では以前魚場があり、番屋も建てられていた。昭和初期、ある船頭が自分の家に伝わる龍神様に願掛けをしたところ、魚たちがどっと押し寄せ浜は大漁に沸いたのだという。そして、新しい番屋も建ち、感謝の思いからか稲荷様も建てられた。しかし、そのうちに魚場はなくなり番屋も消え、稲荷様だけがぽつんと残されていたという。
現在、葛登支岬には葛登支稲荷神社が存在する。そして、その神社は再建されたものだという。位置的に考えると、この神社は「ヤマゼン高村の稲荷様」であろう。その稲荷を再建した人物が、実は寿楽園の荒廃する様を嘆き悲しみ、私財を投げ打って10余年の歳月をかけて再建させたのだという。そういえば、寿楽園入り口と思われる場所にあった軽食喫茶の店名と、国道沿いにある葛登支稲荷神社そばのペンション名とが、同じであった。同じ人物が経営していたのだろうか。
葛登支地区の発展を願って心血を注いでいたキーマンである人物は、残念ながら2003(平成15)年に88歳で亡くなっていた。
そして、その年、生前三木露風(注)の碑の建立を熱望していた故人の意思を継いだ有志が、葛登支稲荷神社そばに碑を建立した。
神社のある高台から海を眺めて三木露風が詠んだ、
「はるかなる 岬の上に 立ちにける 白き燈台 日に輝けり」
という短歌が刻まれている。
明治・大正期の函館の隆盛、島崎藤村、葛登支の歴史、三木露風、再建にかける熱い思い。
普段何気なく通り過ぎる場所にも、これだけの土地の記憶が詰まっている。
ネット上を検索しても、寿楽園に関する記述は本当に一握りしかない。
誰かが残さなければ、こうしてどんどんと消えていってしまう。
それは、寂しいことだ。
つづきはこちら!
»私を寿楽園に連れてって 完結編
参考サイト
注:三木露風は、大正9年~同13年まで当別のトラピスト修道院にて文学講師として居住していた。修道院の前庭に露風の詩碑がある。
付録
その他、寿楽園についての記述があるサイト
- いしぶみ紀行
トップから下の方にある「第08号 北海道」をクリック。
このサイトの方も寿楽園を訪ねたが・・・。 - 函館文学散歩
トップ→「元町文学地図」→10、秦家
秦家と島崎藤村について。 - 黒ウサギ的こころ
トップ→野山と林道→寿楽園と△175.1
石碑と石造りの門が!
まず、前回のあらすじに書いてある図がさっぱりわからん(笑)
そして、「ふじむらとうそん」と、最初の小見出しを見て“ああ~、そんな文豪いたなぁ…”と思ってしまったワタクシがいます(笑) ワタクシにも通じてますよ!