明治29年頃から函館港と函館湾を守備することを目的に要塞設置が計画され、明治31(1898)年に薬師山砲台が起工し、順次御殿山、千畳敷、立待岬などに砲台が築造されました。
(左:御殿山第一砲台の地下掩蔽部)
ある程度要塞が完成したところで、明治37(1904)年に日露戦争が勃発し、函館山津軽要塞も動員されました。
7月20日にはロシア艦2隻が津軽海峡を横断するという事件がありましたが、射程8000メートル足らずだったため、津軽要塞は沈黙したままでした。このことから、役立たずな要塞であったという評価があります。
しかし、津軽要塞があったおかげで函館港が攻撃されることはなかったという研究もあり、全く役に立たなかったと結論付けるのは早計では、とする説もあります。
その後、大正5(1916)年に御殿山第一砲台と薬師山砲台の廃止が決定し、昭和に入ってからは津軽海峡の守備のために対岸の竜飛岬と大間崎にも砲台を設置、昭和2(1927)年に函館要塞司令部から津軽要塞司令部と改称されました。
これらの砲台は太平洋戦争にも用いられ、太平洋戦争時に新造された高射砲陣は昭和20年7月の空襲に発砲しています。しかし、要塞は太平洋戦争終結後にすべて廃止されました。
函館山が要塞であったため、函館市内やその周辺部では測量、撮影などは要塞司令部の許可が必要で、また厳しい検問を受けました。太平洋戦争後に、ようやく函館山は一般開放され、要塞の遺構が人々の目に触れることとなりました。(御殿山第一砲台地下掩蔽部には、戦後間もなく書かれたと思われる落書きが残されています。)
平成13(2001)年、「函館山と砲台跡」として北海道遺産に登録されています。
上2点の画像にある御殿山第一砲台の遺構は、100万ドルの夜景で有名な函館山山頂駐車場の真下に存在します。何万人も訪れる観光名所の真下に、このような遺構があるとは多くの人は知らないでしょう。
こちらは危険ですので許可なく立ち入ることはできません。
しかし、左の画像にある御殿山第二砲台跡は、つつじ山駐車場から徒歩ですぐの場所。ちょっと山頂に遊びにきたついでに立ち寄ることができます。
ここには、砲台が6門と地下砲側庫、地下掩蔽(えんぺい)部、観測所跡が残されていますが、地下の遺構は危険なので立ち入り禁止です。
砲台跡横の壁には、隣の砲台跡や観測所に通じる伝声管が作られています。
(上の画像中央の穴)
実際に使用に耐えるものだったのか試してみましたが、しっかりと内容が聞き取れました。
少し高地にある観測所で敵機情報を得、伝声管で方位や角度を砲台へ伝え、発砲!という流れだったとのことです。
(右:御殿山第二砲台・地下掩蔽部入口)
左の画像は千畳敷にある戦斗司令所跡で、函館山各地の砲台を指揮するための施設でした。
右の画像は、戦斗司令所内部の電話が設置されていた小部屋です。ここから各砲台に電話連絡をしていました。
こちらは特に立入禁止とは表示されていませんが、十分気をつけて見学してください。
※立入禁止区域の画像は、津軽要塞管理者に許可を得て撮影したものです。
※見学の際はくれぐれも立入禁止場所に侵入しないようお願いします。
また、マムシ生息地ですので、長ズボンで見学されることをおすすめします。
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