土方歳三最期の地

江戸時代末期、新選組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は、鳥羽伏見の戦いの後、新選組を率いて各地を転戦して北上し、仙台で旧幕府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流しました。

明治元年(1868年)10月、蝦夷地(北海道)に上陸した榎本軍は、箱館を占拠して新政権を樹立、土方はその陸軍奉行並という要職につきました。 翌2年4月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退しましたが、土方が守った二股口(現・北斗市)だけは最後まで落ちませんでした。

しかし、同年5月11日、ついに箱館の守りの要である弁天台場が新政府軍の手に落ちました。土方は、新選組が守護していた弁天台場の奪回と仲間たちの救出を目指し、50名の兵を率いて一本木(現・若松町)の関門を出て箱館の市中に向い、敢然と切り込んでいきましたが、銃弾に当たって倒れ、波乱に満ちた生涯を閉じました。時に35歳でした。

この付近に一本木関門があったとされているため、ここに彼の最後の地碑が置かれています。実際の一本木関門の場所は不明ですし、彼の死亡した場所にはいくつかの説もあり、真相は闇の中です。
また、その埋葬場所も現在は謎となっています。

土方歳三の埋葬場所の謎


当時の戦争では、敵軍の将を討ち取ったと主張する者にその首を提出させ、相手の氏名や討ち取った経緯を、場合によっては証人を伴い確認した上で戦功として承認するというシステムだったため、土方のような要職にある人物は狙われていたと考えられます。

土方が戦死した場所も、一本木関門説、異国橋(現在の十字街交番付近)説、鶴岡町(現・大手町)説など、いくつかの資料で食い違っていて、確定できていません。

実際に討った人物についても諸説あり、松前藩士が撃ったとする説、藩命によって出撃したある猟師が狙撃したという説、また、撃たれた後民家にて介抱された後死亡したとする説などが伝えられています。
その土方が命を落とした際、敵に遺体や首を奪われないために、味方や仲間はその遺体を守ろうとしたことでしょう。
遺体をそのまま運び出したのか、それとも首だけはとられまいとしてそれだけ大切に持ち去ったのか・・・。
いずれにせよ、結果的に土方の遺体は行方不明となり、現在どこに葬られているのかわかっていません。

いくつか埋葬場所についても仮説があり、五稜郭内埋葬説、願乗寺(東川町、現・本願寺西別院)説、大圓寺(神山)の無縁塚説、極楽寺(念仏寺、無縁寺、閻魔堂とも。現・吉川町)埋葬説、碧血碑説など、関係者の証言や推理などで
いくつもの答えが導き出されています。
確かなことは、土方がまだこの函館の地に眠っているということ。熱い幕末の最後の残り火が燃えつきた場所に、
私たちは日々暮らしているのだという事実です。

新選組について

江戸時代後期の幕末期に、主として京都で、反幕府勢力の弾圧や警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った軍事組織。

その多くが武士出身ではなく、農民や商人で構成され、局長近藤勇、副長土方歳三以下様々な役職に分かれ、多い時には総勢200人以上の隊員がいたといいます。
反幕府勢力の捕縛・壊滅や、有名な池田屋事件などの功績によって、農民・商人・浪人の寄せ集めだった彼らは幕臣にまでなり、局長の近藤は旗本格となって将軍に謁見できる立場にまで出世しました。

その結束力の影には、厳しい掟の存在がありました。
士道にそむくことや、局を脱することなどの禁令があり、これを守れなかったものは粛清されましたが、鳥羽伏見の戦い以前までで41名が粛清されています。

他の有名な隊員には、天才剣士だが、肺結核で若くして亡くなった副長助勤、一番隊組長沖田総司、松前藩出身で実力は新選組一、二を争うと謳われた二番隊組長永倉新八、
槍の使い手で豪胆な人物として知られた十番隊組長原田左之介、新選組最強の剣士とも言われ会津藩と共に戦った副長助勤、三番隊組長斎藤一、などが在籍していました。

しかし、反幕府勢力が強大になりつつあり倒幕への気運が高まる中、当時の将軍徳川慶喜は、慶応3年(1867)朝廷に政権を返上するという大政奉還を行いました。

混乱や戦争を防ぎ、たとえ朝廷に政権を返却したとしても、これまでと変わらず徳川家主体の政治を行っていこうとの狙いでしたが、討幕側と朝廷とが手を結び、事実上の徳川家の排除を宣言しました。

それが発端となり様々な軋轢から、ついに慶応4年1月(1868)鳥羽・伏見の戦いが起きました。
江戸幕府に忠誠を尽くすという一心で、新選組も参戦しましたが敗北してしまいます。
その後、榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へと移動し、新選組は幕府から、新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ甲陽鎮撫隊へと名を改め出撃するも敗戦。

甲州勝沼の戦いの後、江戸に戻りましたが、近藤勇、土方歳三らは再起をかけ、流山(現在の千葉県)へ移動するも、近藤勇が新政府軍に捕われ処刑、沖田総司も持病であった肺結核の悪化により江戸にて死亡しました。

新選組は宇都宮城の戦い、会津戦争などに参戦しますが、会津では斎藤一などが離隊し、会津藩と共に最後まで戦いました。

その後、土方歳三他は最後の最後まで徹底抗戦を貫こうと、蝦夷共和国の成立を目指す榎本武揚らに合流し、二股口の戦い等で活躍しました。

しかし、頼みの綱であった軍艦開陽丸が江差沖で沈み、旧幕府軍榎本らの戦力は大幅に減少。

雪解けを待ってついに新政府軍が箱館に上陸。
弁天台場で新政府軍と戦っていた新選組を助けようと土方歳三らが向かいましたが土方歳三が銃弾に当たり死亡し、食料や水も尽きてきたため新選組は降伏しました。
その後、千代ヶ岱陣屋では中島三郎助父子が死亡し、旧幕府軍は箱館の五稜郭において新政府軍に降伏しました。

この一連の戦乱を戊辰戦争と呼びます。

箱館戦争の詳細はこちら

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