この場所は、箱館戦争の際に戦場となった場所で、周囲は断崖絶壁、その峡谷に山道と鶉川の急流がありました。現在は鶉ダムになっています。
未完成で無防備といってよい館城にとっては、ここは重要な砦でした。そこで、松前軍はここに木の柵を構えて関門を設け、100余名の兵を配置し、大きな丸太を吊り、綱を切ると落下する仕掛けにして、4門の砲座や胸壁も作りました。
しかし、明治元年(1868)11月12日の戦いで、幕府脱走軍200余名の兵は、正面突破隊と左右の山をよじ登った隊に分かれて山頂から塞門を真下に銃撃する奇襲作戦を取ったため、不意をつかれた松前軍は4時間あまりに渡って奮戦するものの、あえなく敗北しました。この敗戦が館城の運命を決定的なものにしたと言われています。
福山城(松前城)陥落史には、最も熾烈を極めた激戦地はこの地と記されており、大正8年には有志によって碧血碑が建立されています。
当時の山道は、鶉ダムの底に沈んでいます。碧血碑はダムの建設により水没することとなったので、昭和51年に現在の地に移したそうです。
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