荒神社:知内町

松前藩藩主5代慶広の4男、数馬之助由広(1594~1614/かずまのすけよしひろ・数馬介とも)は、剛の者だが蹴鞠や歌謡も得意だったという。

ちょうど関が原の戦いから10余年たった7代公広(きんひろ)の時代、慶広はすでに隠居していたが公広が幼かったので実権を握っていた。かつて豊臣秀吉に謁見して蝦夷地支配を認めてもらった慶広だが、今後は豊臣家との長いよしみを捨て去り、徳川家につくことがお家安泰につながるとして、藩主の公広をはじめ息子や孫たちに相談した。

公広をはじめとしてほとんどが慶広の意見に賛成したが、ただ一人数馬之助だけが太閤秀吉に忠節を尽くし、秀頼を支えることが武士道だ、と慶広に反対した。
慶長17年(1612)年、数馬之助は母の追善に高野山に詣でた帰りに大坂に寄った。その2年後の大坂冬の陣の際、彼は大坂方に加担しようとしたので、徳川家についていた慶広は家臣に命じて、息子である数馬之助を討とうとし追ってきたので、ついに数馬之助は自害してしまった。(数馬之助がつまらぬことである武将を斬ってしまったことに激怒した慶広が、討手をさしむけて数馬之助が力尽き、自刃したとの説もある。)

慶広は北の丸に堂を建てて息子の冥福を祈ったが、ある朝南向きだった堂がいつの間にか東向きになっていた。何度直しても東向きになってしまう。
慶広は恐れおののき、城下の予言者の尼に占ってもらったところ、数馬之助の霊が知内の山を彷徨っていて、一振りの太刀が置いてあるという(数馬之助の霊が巫女に「成我神其名云雷天荒神」と言わせたという)。調べると、尼の言うとおり毛無山山麓の栗の木に、数馬之助の太刀を見つけた。

栗の木は、「太刀がけの栗」と言われて御神木として崇められた。西北の風が強く、他の木は風になぶられてその方へ伸びていくのに、この木の枝はなぜか松前の方向を向いて伸びていったという。人々は数馬之助の霊が、まだ鎮まらずに松前を睨んでいると噂した。
その地に3代藩主公広が荒神社を建立し、供養のため数馬之助の脇差しをご神体として、羽織箱に入れて埋めたという。
その翌年(1616)、慶広が急死した。城内でも数馬之助の祟りが噂された。
さらに、数馬之助の弟・安広が、兄の霊を弔うために仙台から12本の黒松を送り、荒神社そばに植えた。しかし、この松の枝もやはり松前へ向かって伸び始めた。

レポートと解説

太刀がけの栗は明治初頭の山火事で焼失し、現存しません。
また、安広が奉納した黒松も1本を残すのみとなっていますが、樹齢400年といわれる松の木の枝は、しっかりと松前へ向かって伸びています。

雷公神社に祭られていた、荒神社の名が入った木の額。


また、松前には「馬坂」という坂があり、その坂はもとは「数馬坂」といったそうです。
数馬之介がこの坂の場所で奮戦し、自刃したという言い伝えが残っています。
かたや知内、かたや松前、謎は深まります。

雷公神社について

祭神は別雷神・加茂御祖神。
寛元2年(1244)山城国加茂からの奉遷説と、元久2年(1205)荒木大学が加茂二社を建立、享徳2年(1453)両社をあわせて雷公神社としたとの説がある。
大正4年(1915)に上雷から現在地へ移動しているが、知内川沿いの雷野にあったとする記録もある。
明治9年(1876)村社。末社に松前数馬之助をまつる荒神社や、下国恒季をまつる雷電社がある。例祭は9月22日。(函館道南大事典より) 
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