国指定史跡「松前氏城跡・福山城跡・館城跡」で、松前藩が明治元年(1868)に築いた城です。
クーデターで政権を得た正議隊は、従来の松前城では海上攻撃を防げないとして、この地に8月から新城の築城を始め、突貫工事で10月には完成しました。
1万坪の敷地に四方を幅二間(約3.64m)の空堀で囲み土塁をめぐらし、内側に丸太で柵を作り、西側に表門、北側に裏門を作り、その郭内に本丸・役所・武士部屋二棟・賄い部屋・米倉などを設けました。
松前藩の予想通り箱館戦争が勃発し、藩主徳広(のりひろ)は11月3日に松前城から館城にうつりましたが、5日に松前城がおちたとの知らせにより、藩主は12日江差方面へ脱出しました。
実質、藩主がこの城にいたのは9日間です。
その後、15日に徳川脱走軍が攻めてきて(松前藩は新政府側でした)、約60名しかいなかった松前藩兵は敗れ、館城は焼け落ちました。
すべて焼け落ちてしまったので、現在は土塁や井戸跡などしか見ることが出来ません。
館城の戦いで奮戦した松前法華寺の僧、三上超順が力試しをしたと伝えられる石があり、伝説が残されています。
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