ええ、聞かれる前に言っておきますが、艦これやってますよ。
中学生の頃に兄のウォーターラインシリーズ日本海軍の大艦隊をエアガンで壊滅させたほどの腕前を持つ我が夫に(お義兄さんすみません)、提督として着任してもらったんですが、自分でもやりたくなって自分用のアカウントで私もやっています。
おかげで太平洋戦争の戦記や書籍を多く所有する私の父とも艦船に関する話ができるようになって、とても楽しく過ごしていたのですが、私の好きな重巡洋艦加古の艦長さんの著書を父に貸していてそれを父が読み終わったと言うので、じゃあ今度本を取りに行こうなんて思っていた矢先に、父が急逝してしまいましてね。
いえ、しんみりしすぎるとすぐ泣けてくるのでやめてくださいね。
結局その本は結果的に最後の思い出的なものになってしまったので、そのまま棺に入れて旅立ってもらいました。父的にはもっと好きな船があっただろうけど、分からないなぁ。
飛行機の方が好きだったかもしれないな。小さい頃はパイロットになりたかったと言っていたし。
そんな父は昭和14年生まれで、函館空襲経験者です。
当時、父は湯の浜に住んでいて、空襲時は浜の方に掘っていた防空壕から津軽海峡を眺めていて、飛行機が船を撃沈させる様子が見えたという話を、小さい頃からよく聞かされていました。 また、義父も函館空襲経験者で、義父に至ってはもっと恐ろしい経験をしていて、当時住んでいた東雲町で朝ご飯を食べていたら空襲となり、みそ汁を持ったまま防空壕に避難したという経験が。近所だった松風町の交差点辺りに爆弾が落ち、大森浜の方へ避難したら米軍の戦闘機グラマンに機銃掃射されたものの辛くも逃げ切り、その後市外の知り合いの所へ家族で移ったとのこと。(「大森浜に高射砲があったような気がするんだけど、どうだべ~?」と義父が申しておりまして、どなたかご存知ありませんか?)
さて、その函館空襲は昭和20年7月14日の早朝のことでした。市街地では爆弾や機銃掃射によって分かっているだけで79人の死者が出、狙われていた青函連絡船はことごとく撃沈され死者・行方不明者425名という被害を受けました。北海道で産出された石炭や食糧を函館から本州へ輸送していたので、函館や連絡船が狙われたのです。
しかし、函館は空襲を受けている間沈黙していたわけではありませんでした。今でこそ夜景スポットとして有名な函館山ですが、実はこの当時は要塞だったのです。ところが、いくつもの砲台が設置されていたものの、敵機に応戦できる高射砲は当時台町などに3基ほどしかなかったとのこと(参考:地域史研究はこだて第22号p.36)。ですので、空襲の際も要塞は大した活躍もせず、市民は落胆したのだそうです。代わりに花火を打ち上げていたなんていう冗談みたいな話も伝わっていたりします。その少ない高射砲からの反撃では敵機を二機撃墜したとのこと(参考:地域史研究はこだて第22号p.40)。
しかし、函館港で身を挺して迎撃した部隊がありました。それが、橘型(改丁型)駆逐艦のネームシップ「橘」です。
橘のことを知ったのは、護国神社を散歩した時にある碑を見つけたからです。
昭和20年7月14日午前5時、米海軍機動部隊より約100機の敵艦載機が函館港停泊中の青函連絡船及び船舶を目標に来襲した。これら船舶の護衛の任務にあった駆逐艦「橘 1260トン」は単艦よく敵艦載機の襲撃を一手に引き受け、湾内湾外に勇戦奮闘し、在泊船舶の損害を最小限に食い止め其の任務を遂行した。敵機6機撃墜、1機撃破して午前6時53分葛登支灯台の90度2分3000mに沈んだ。乗組員280名中、戦死者140名、戦傷者31名
平成三年七月十四日 建立
祭主
元橘乗組生存者一同
数年前、この碑を見つけたときまで、函館に当時駆逐艦がいて戦ったという話は、恥ずかしながら全く知りませんでした。そして調べていくうちに、福島町沖で橘と同様に戦った駆逐艦「柳」のことも知りました。
空襲のこと、また、自分の故郷である函館や津軽海峡を守るために命を懸けた人たちがいたのだということを学んで、しっかりと忘れずにいたいと思ったのと、このことを少しでも多くの人に知ってもらいたい、という勝手な願いがありまして、今回橘型(改丁型)駆逐艦「橘」とその僚艦である松型(丁型)「柳」についてご紹介させていただきたいと思います。
とっても長くなります。また、空襲や駆逐艦のことについては、今回初めていろいろな資料を読んで学びましたので、勉強不足の点が大いにあると思います。もし、不備などがありましたらお教えください。
駆逐艦「橘」と駆逐艦「柳」のスペック
さて、そもそも「駆逐艦」とは何なのでしょうか。以前の私には漠然と「戦うための艦だ」ということは分かっていましたが、軍艦にも様々な種類があってそれぞれの目的がよく分からない、と感じていました。駆逐艦とは・・・、
第2次世界大戦以前は砲,機銃および魚雷を主兵装とし,敵の艦船を攻撃するための1400~2000トン程度の軍艦を呼んだが,現在では3000~8000トン程度の戦闘艦をさす。 駆逐艦の起源は水雷艇に端を発する。魚雷の開発(1866)に伴い,魚雷で敵を攻撃する専用の艦艇の開発が進められた。1870年代後半,イギリスは魚雷発射管を搭載した〈ライトニング〉(長さ25m,幅3.4m,排水量27トン,速力19ノット)を製造し,これを水雷艇と呼んだ。(世界大百科事典 第2版から引用)
柳のスペックを以下に記します。
全長 | 100m |
吃水線長 | 98m |
最大幅 | 9.35m |
深さ | 5.7m |
平均吃水 | 3.30m |
基準排水量 | 1,262t |
公試排水量 | 1,530t |
馬力 | 前進=19,000馬力 後進=4,000馬力 |
速力 | 27.8ノット |
航続力 | 18ノットで3,500海里 |
主機械 | 艦本式タービン |
主缶 | ロ号艦本式×2 |
燃料 | 370t |
兵装 | 40口径八九式12.7センチ連装高角砲×1 40口径八九式12.7センチ単装高角砲×1 九六式一型25ミリ3連装機銃×4 九六式三型25ミリ単装機銃×12 弾薬数 主砲600発 機銃20,400発 四式射撃装置二型1組 九二式4連装発射管四型×1 九三式魚雷三型(61センチ)×4 九四式爆雷投射機×2 爆雷投下装置 軌道×2 二式爆雷改二型×36 小掃海具一型改一×2 探照灯 九六式90センチ×1 電波探信儀 二号二型×1 水中聴音機 九三式二型×1 探信儀 九三式一型×1 測距儀 九七式2メートル高角測距儀×1 九六式66センチ測距儀×1 望遠鏡 12センチ高角×3、8センチ高角×4、6センチ高角×5 発電機 135KVAタービン×2 35KVAディーゼル×2 |
短艇 | 10メートル特型運貨船 6メートルカッター×2 |
乗員 | 士官12人、特務士官1人、準士官5人、下士官66人、兵186人 合計270人 |
※松型(丁型)と橘型(改丁型)の違いについて
船首材は船底まで直線とし、下部でのナックルを取りやめる。船首部外板のフレアーも直線のナックル方式。
艦尾形状は角型艦尾のトランサム・スターン。
強度上重要部分に使用していた高張力鋼(HT材)を取りやめ軟鋼とした。
そのため板厚はHT材より4~6ミリ厚い板を用いた。
鋲の使用は廃止され、鋼板の接合はすべて溶接により地上で船体の一部を製作し、それらを集めて船台上で総組立結合するブロック建造を実施した。
四式水中聴音機
十三号電波探知機(対空レーダー)
甲板敷物のリノリウム全面廃止。
手すり柱・手幕柱・昇降階段の素材メッキ加工を中止し表面塗装とした。
橘の乗員:士官10人、特務士官3人、準士官4人、下士官60人、兵199人、合計276人
(参考:松型駆逐艦―簡易設計ながら生存性に秀でた戦時急造艦の奮戦 (〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ (43))、第11水雷戦隊戦時日誌(5)p.34)
橘と柳の誕生~津軽海峡へ
では、駆逐艦橘と柳の生き様を追ってみます。
「橘」は横須賀工廠にて建造され、昭和20年1月20日に完成しました。もともと橘型(改丁型)のネームシップは「八重桜」だったのですが、建造中止となったため「橘」が第一艦となりました。「柳」は、昭和20年1月18日に松型(丁型)駆逐艦18番艦として大阪市藤永田造船所にて建造されました。松型(丁型)としては最終艦となります。
建造された時期を見てもお分かりの通り、戦時中の後半に作られた艦です。「橘」や「柳」が建造された時期は、それまでに建造されていた駆逐艦がどんどん撃沈していった頃で、そのため駆逐艦が不足していました。急いで戦力を整える必要に駆られて開発されたのが、松型(丁型)・橘型(改丁型)といった駆逐艦でした。それまでの駆逐艦のような砲や水雷攻撃を主体とした攻撃手段ではなく、それらを多少犠牲にしても敵機動部隊、つまり航空戦力に対抗するための兵装を強化し、輸送能力も加えて短期間で急速建造が可能な駆逐艦として、松型(丁型)・橘型(改丁型)が誕生したのです。
建造されてすぐは、二艦とも呉を母港として第十一水雷戦隊に編入され、瀬戸内海で訓練の日々を送り、3月15日に第五十三駆逐隊(桜、楢、椿、欅、柳、橘)に編成されました。その後、昭和20年3月26日にはあの戦艦大和が散った菊水作戦に参加せよという命を受けて出撃準備をしていましたが、数日後に作戦から外されました。
4月には、敵潜水艦が日本近海に出没しはじめ、特に北方方面において味方船舶への攻撃が激しくなり、千島からの撤退作戦行動中の船や北海道から内地への石炭その他物資輸送船舶の護衛のため、5月7日第五十三駆逐隊の橘・柳が、海上護衛総司令部部隊大警護衛部隊(青森県大湊)に派遣されました。
大湊に到着してからは、津軽海峡を航行する味方船舶の護衛と敵潜水艦の掃蕩に奔走していました。敵潜水艦に沈没させられた民間の輸送船から投げ出され漂流していた乗組員の救助をしたり、時には敵潜水艦と遭遇し雷撃されるも回避し、爆雷攻撃を激しく加えるなどしていました。(津軽海峡の米軍潜水艦といえばアルバコアが有名ですが、アルバコアがこの海域にやって来たのは昭和20年10月末のようなので、この時遭遇したのは違う潜水艦ですね)
6月22日からは、積極的に津軽海峡で警戒掃蕩に当たるため、柳は福島町沖に停泊して竜飛岬との間を、橘は函館沖に停泊して大澗崎との間を水中探信、水中聴音して敵潜水艦の通過を補足掃蕩することを第一とし、その間に恵山岬、尻屋崎方面その他で味方の被害報告があればその地に急航、爆雷戦で攻撃することとし、昼夜を問わず警戒していたそうです。
橘がどの地点で停泊していたのか記録が無いのでわかりませんが、柳については場所の詳細が明らかにされています。福島町月崎南東方向沖約1km、水深22.3m、港灯台を270度前後約1kmに見る地点だったとのこと。
柳が福島沖に停泊するようになって何日目かに当時の村長さんから表敬訪問をしてもよいだろうか、と問い合わせがあったため、「どのような形でお会いするのがよいだろうか」と柳の大熊安之助艦長が略綬を付けて緊張しながら待っていたところ、船を漕ぎながら近づいてくる作業着姿の男性が。そう、村長だったのです。村長はするめいかの大束を片手に船に上がって来て、艦長に生鮮食糧の納入やその他協力できる事があれば申し付けてほしいという旨を伝えに来てくれたようでした。
このエピソードは福島町史には、「申し付けてほしいとのような意を云いに来られたようであった。」と書かれているのですが、これはもしかして方言が聞き取りにくかったから曖昧な文章になっているのではないでしょうかね?福島町史によれば、柳の乗組員の多くは愛知、三重、大阪、兵庫、鳥取、島根、岡山、広島、山口の出身だったとのこと。
村長の訪問の後、緊急出港はないだろうと判断した場合、乗員は交替しながら一人2~3時間上陸し、入浴したり洗濯をしたりしたそう。この時、柳はたった1ヶ月にも満たない停泊の間でしたが、福島町民にとても親切にしてもらったことが忘れられない思い出となっていると福島町史には書かれています。
福島町中塚橋そばにある「駆逐艦柳 応戦展望の碑」。乗員は中塚橋近くにあった風呂屋に通っていたとのこと。
一方、橘は青森県の三厩漁港沖に投錨して上陸した折、三厩の住民が少ない物資を何とか工面してくれ、「海軍さん」と呼んで歓迎してもらい、その時披露してくれた古老の江差追分がひとしお身に染みたと艦長が残しています。
7月1日に一度大湊へ戻り補給と作戦打ち合わせを行い、再び橘は函館沖、柳は福島町沖で対潜哨戒の上に船舶航行管理、護衛警戒任務に就きました。その後も味方船舶が潜水艦の被害に遭ったという情報で江差沖や大島、小島のあたりを二艦で索敵したり、竜飛岬へ緊急出港したり、恵山から室蘭付近まで掃蕩して浮遊機雷を発見し橘が処分するなど、昼夜作戦行動をしていました。
そんな中、橘の林利房艦長が柳艦長に「クカヨクカ、ハコダテハギョモウオホクテウネリダイ、ウキヨバナレノワガハクチカナ」と信号を送りました。これは、「駆逐艦長(クカ)より(ヨ)駆逐艦長へ、函館は漁網多くてうねり大、浮世離れの我が泊地かな」との和歌でした。柳の大熊艦長は艦橋で遠ざかる橘を微笑みながら、「余裕のある奴だな」と言っていたそう。
7月10日、室蘭が米軍機動部隊の艦載機による攻撃を受け連合艦隊司令部から米軍第38機動部隊・艦載機約300機接近の連絡が入りました。近々津軽海峡にも敵が現れるかもしれないという緊張感が増していったことでしょう。
そして、運命の7月14日がやってきました。
とても長くなってしまったので、その2へ続きます。
参考文献
- 松型駆逐艦―簡易設計ながら生存性に秀でた戦時急造艦の奮戦 (〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ (43))
- 帝国海軍真実の艦艇史 (2) (〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ (51))
- 第11水雷戦隊戦時日誌
- 大湊防備隊戦時日誌戦闘詳報(6)
- 大湊防備隊戦時日誌戦闘詳報(9)
- 福島町史第三巻通説編下巻第五節 米軍の空襲と駆逐艦 柳
- 地域史研究はこだて第22号
- 教えてください、函館空襲を―空襲犠牲者の血みどろの証言から
- 上磯町史 下巻
- 北海道新聞朝刊 地方 函館・渡島・桧山版 1989年8月15日p.15
- 北海道新聞朝刊 昭和31年12月19日p.7
- 北海道新聞朝刊 昭和31年12月24日
- 北海道函館北高等学校郷土研究部レジュメ(抜粋)
橘および柳の善戦に敬服しました。戦没者のご冥福を衷心よりおいのりします。
この日、苫小牧を襲った艦載機が一機が視界不良で樽前山に墜落した、二人の乗員のうち、一人は生存し二か月ぐらいして助けられ市民にもてなしを受ける。
その後アメリカに帰国した、その子孫が平成27年苫小牧を訪れるそうです。