夜泣き石:函館市

函館山中腹にある自然石。もとは頂上にあったものだが、明治32(1899)年に山の要塞化のため小さくしてここへ下げたという。

昔、悪人に殺された母子が大きな石の下に埋められ、毎晩泣き声が聞こえたので、日持上人というお坊さんが供養し、それからは泣き声がやんだ。
文化13年に、京都本満寺の僧日亀が日持上人の筆跡と称するこの石の碑面の墨書を残すために、石を彫った石工が3人死んだという。この故事により題目石ともいう。

また、下に経文を書いた小石を埋めたということで御経石ともいう。
さらに、鶏のとさかの形をしていて、鶏の鳴き声も発したということで、鶏冠石ともいう。

レポートと解説

西中学校の裏にある、実行寺から登っていきました。
ここは函館山登山コースの一つ、「観音コース」なのでどこかにその表示があるだろうと思っていたら、どこにもなし!
お寺の境内はお墓ばかりで夕暮れ時にはちとゴキゲンな風景!
1人でこの先お墓の中を迷いながら進むのは恐かったのですが、お墓内のメインストリートらしき所を、明るく実況しながら(もちろん1人で)どんどん進んでみました。

結構きつい登りが続き、運動不足の私の足が上がらなくなってきました。そろそろ限界か!?と思われた瞬間、
「ガサガサ!」
「!」

・・・おじさんでした。
この道のすぐ横がおじさんちの庭らしく、樹木の手入れをなさってました。場所が墓所だけにびっくり!

と、5分ほどで到着。塀で囲われているのですぐにわかりましたが、特に看板などはありませんでした。
よく見ると「南無妙法蓮華経」と彫ってありました。その右側にも何か彫ってありましたが、よく読めませんでした。


「函館・道南大事典」では、母子の泣き声の話は日持上人の生地、駿河の静岡県小夜中山の夜泣き石伝説を仮借したものだろう、と考察しています。
ただ、日持上人が来道したという伝説は道南各地に残されていて、この夜泣き石の手前にある実行寺にも、日持上人が来訪したとの話が残っています。
ですが、実は京都本満寺の僧、日尋(にちじん)らが話を作り上げたもので、史実ではないそうです。
この日尋は、永正16年(1521)に道南に渡り、上ノ国に法華堂を建てました(のちの松前法華寺)。この時自分が2世となり、遠い昔の日持上人の霊を勧請して開山と崇めたので、後年、日持上人が北海道へ渡ったという伝説が生まれたのだそうです。

この夜泣き石は、もともとは函館山の鶏冠峰(けいかんほう)と呼ばれていた峰にありましたが、函館山要塞化に伴い現在地へ移されました。その時、大きいままだと運搬料が高くなってしまうため、石工たちがこの大きかった石を切り詰め、現在の大きさにしたそうです。そのため、今はとさかの形の面影もありません。

また、明治時代から戦前まで「けいかん祭」が行われていました。


碑に彫られている文字
「南無妙法蓮華経 大日天王大月天王」(表)
右脇下に「皇都沙門浮木亀(花押)鶏冠峰日持大聖人旧跡」
(「函館-その歴史・史跡・風土-(須藤隆仙著)」による。2009.1.30追記)

実行寺では、毎年6月1日の日持上人の法要に合わせて、鶏冠石の供養祭も行っています。
装束を纏った僧侶や檀家が観音コース経由で鶏冠石まで行き、お経をあげるとのこと。(「2016年8月18日北海道新聞みなみ風」による。)
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