赤沼:函館市

  1. 龍神様
    関西方面から来た尼さんが、「函館の北にある赤沼に行ってお祈りしなさい」という夢を見、 赤沼まではるばるやってきた。すると、沼から龍神様が現れたので、付近の村人と祠を作った。 それ以来豊作が続いたという。
    この祠で一晩を明かすと、龍の化身の女性が現れるという。
  2. 悲恋の涙
    三百年ほど前、行き倒れになった母子が、赤川の大地主の由右衛門に助けられた。 やがて娘は18になり、地主の息子弥七と恋仲になる。しかし弥七には親の定めた許嫁がおり、娘は弥七との恋をあきらめなければならず、山に入り、何日も何日も泣いた。 その涙は沼をつくるほどになり、娘はその沼に身を投じたという。以来、この沼は涸れることはなくなった。
  3. 雨乞い
    田植えの水不足の際、雨乞いをすると必ず雨が降るという。
  4. オサンゴ
    この沼にオサンゴ(米とお金を白紙に包んだもの)を投げ入れて沈むと願いが叶うという。
    また、眼病の者は沼の水で洗うとたちまち治る。
  5. 大蛇
    明治34年、石川町の豆腐屋のおかみが、真夜中にふと目を覚ますと枕元に異形のものがいた。
    びっくりして飛び起きると、その異形のものがいうには、「私は赤川の山奥にある赤沼の主で、古い大蛇である。 雨を祈りの神として人々が敬ってくれている。数千年ここに住んでいるが、今は孫、ひ孫、玄孫と一族が増えてしまい、この池が狭くて住み辛い。 そこで、ここの家の庭に池を作って社を建ててほしい。もし建ててくれたら一族の繁栄を約束したい。」
    はっと気づくともう異形は消えていて、夢だったような気もする。
    そのままにしているうちに、夜な夜な赤沼から流れている川の流れ尻に、狐火のようなものが現れるようになったので、大蛇の言うとおりに庭に池を作り祠も建てたという。

レポートと解説

赤沼は周囲60mの神秘的な沼。函館市の水源の一つでもあります。
水そのものはとても綺麗で、アイヌの人々は「ワッカベツ(きれいな飲み水の川)」と呼んでいたそう。
赤沼の名は赤土によって水が赤く黄ばんで見えるので生まれたとのことです。
赤沼(泉のように水が湧き出している)のすぐ下流部は湿地になっていたと記憶しているので、そこが赤沼の名の由来とも考えられます。近くには白沼もあり、こちらも信仰の対象となっています。

水自体は青く澄んでいます。が、周りや底の土は赤い色です。
かなりの量の水がこの沼から湧き出ています。また、近づくと硫黄臭がしました。冷鉱泉のようです。これで温度が高かったら、入浴するところですが。

赤沼から流れ出る水です。
一体どのくらいの湧出量かわかりませんが、湧き出たとたんにこの流れです。

「一本栗地主神社」(栗の木さん伝説)の神社守の方のお話です。

若い頃この赤沼に修行に行っていたそうで、夜の12時にふもとから赤沼まで登り、写真の小屋の中で一晩を明かすのだそうです。すると、夜中に天女様のような方が姿を現すのだそうです。
また、以前はもっと大きな湖だったとのこと。しかし、戦後鉄の露天掘り業者によって赤沼の土が掘り尽くされ、現在のような小さな沼と湿地帯になったのだそうです。

「赤川町誌」(平成元年11月3日発行・赤川の歴史を探る会)によると、この鉱山は「日鉄鉱業(株)赤沼鉱山」で、昭和19年4月開山、昭和20年から褐鉄鉱の生産を開始しましたが、同年終戦となり鉄の需要減少によって昭和22年には休山しました。
昭和26年に再び生産再開しましたが、昭和32年に閉山しました。
埋蔵確定量は30万tと言われ、階段式露天掘りという方法で採掘されていました。後期の総生産量は29万6千t。従業員は当初30名程でしたが、再開後は70名程だったそうです。
褐鉄鉱の発見は、元来赤沼が酸化水を湧出していたことを識者が聞き、付近を調査したところ鉄鉱床の露頭を発見したことによるそうです。

「函館新聞(明治19・1886年9月)」に掲載された記事によると、当時の赤沼は平地にあったようで、現在のそれよりも大きかったことは間違いないようです。

三面は山峰まのあたり近く聳(そび)ゆ僅(わずか)に一方川を隔(へだ)てゝ谷間にいささかの平地あり、
その向ふは山又山にて立塞(たちふさが)りかの小沼は此の山に接したる辺りに在り、
形少しく斜にて中の広き處(ところ)凡(およ)そ二丁四、五間もあるべく最も長き處は三十二、三間もあらん、
水中を覗けば一面青味を帯び宛(さなが)ら海水を見るが如く、
水底に茂れる藻は軟かく水に搖(ゆらめ)き水の面に浮べる草は溢るゝ流を堰止(せきと)める等中々に趣(おもむき)多し、
次第に岸に沿いて辿(たど)るに岸辺こそ水草の生い茂りたれ、
水心は草の葉魚の影たに見えず深さ二尋(ひろ)もあらんと思ふ真底迄見えすきたり、・・・・・・

いくつか昔の尺貫法の単位が出てきましたので、注釈を。

  • 二丁四、五間 = 約226m(一丁=約109.09m・一間=約 1.8182m)
  • 三十二、三間 = 約58.1~60m
  • 二尋 = 約3.7m(一尋=約1.818m)

広いところ、長いところ、という記述でイマイチ要領を得ませんが、 226m×58m、深さ4m弱の沼、ということなのでしょうか?
丁という単位には面積を示す場合もあるのですが、一丁=1haでそれだとちょっと大きすぎるということで、長さの単位でいいと思うのですが・・・。
どちらにせよ、現在の沼は前述の通り周囲60m程度ですので、明治時代と比べてかなり小さくなっているようです。
また、深さも最も深そうな場所で1.5mほどでしたでしょうか。明治時代の二尋には及びません。
赤沼鉱山によって赤沼が削られたのかどうかはわかりませんが、何らかの理由で削られて小さくなってしまったことは間違いないと思います。


5の大蛇の伝説は、明治34年7月29日「蝦夷日報」に載った記事。
ここのお宅は今も池を祀っているのでしょうか?記事には名前・住所(旧住所だが)が載っているので、函館市内の豆腐店を調べるも存在しませんでした。残念。
姓も数が多く、探し出すのは困難でした。


妙要寺さんの「赤沼大天女像」のお写真を、パルス企画の坂口天晟さんより頂きました。
このお寺の初代御住職が赤沼さんで拝したお姿を像にしたものだそうです。
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