「愛の戦士たち」とか「寿楽園よ永遠に」とかすっとばして、「完結編」でございます。
「復活篇」や「SPACE BATTLESHIP 寿楽園」などが今後発表される可能性もありますが、今のところはこれで完結としたいと思います。
いえ、別に沖田艦長が誤診で復活なんてストーリーはありませんので、その点はご安心ください。
ところで、「宇宙戦艦ヤマト2199」 楽しみですね!
さて、そんなグダグダはこのくらいにしまして、寿楽園のレポートをお送りしたいと思います。
ATTENTION!
現地は私有地となっておりますが、地元の観光協会様に現状維持を条件に見学許可をいただいておりますことを申し添えておきます。
詳しい場所については、場所の特性上非公開とさせていただきますことをご了承ください。
<以前の探訪記事はこちら>
寿楽園って何?という方は、その1をご覧くださいね。
昨年秋に探訪したものの、溢れかえる木々や草たちに阻まれ、とうとう見ることが叶わなかった寿楽園。
初冬か雪解け後にリベンジをと息巻いていたら、野山遊びの達人「野山とバイクと釣りと戯言」様のブログで、行ってきたよ記事が!
画像を見ると、 植物さんたちはまだまだ本格的に活動していない様子。
ありがたい助言もいただきつつ、私もリベンジに行ってまいりました。
昨年とはえらい違いです。
ちなみに昨年9月はこんな感じ。
もしも昨年並みにわっさわさの道だったとしても行くぞ!という誓いを立てていた私たち家族でしたが、とっても走りやすい状態の道に拍子抜けです。
途中で何度も車体を擦られたイタドリは切られた跡があり、どうやら定期的に道は手入れされているよう。
ゲートらしきものをくぐり、廃墟然となっている建物を眺めながら、その奥に鎮座する車両止めの向こうを目指します。
もちろん今回も家族全員で訪れていますが、私ねりこ以外はみんな車でお留守番。
いないとは思うけど一応熊に応戦するための武器(折り畳みスコップ)も持参しました。
こんなので勝てるとは思わないけど、熊に襲われて助かっている人は、みなさん反撃してるんですよ。 まぁ、お守りみたいなもんですね。
ぬかるんでいることも想定して長靴も準備したのですが、道は十分乾いていて下草も刈られた跡があり、藪漕ぎなどもなく歩きやすい廃道です。草木も繁茂していないため、見通しも大変よろしい。熊っぽい匂いも全くしません。
どこに何があるのかさっぱりわからないので、辺りをキョロキョロしながら進むと、海側(といっても海は見えませんが)の少し下がった場所に池のなれの果てを発見。ちょっと場所が離れていて、車で家族が心配しながら待っている今の状況では、そこまでの探索はできません。
この池というか沼を遠くに眺めながら、さらに前進すること100mほどでしょうか。
ゆるやかに左へカーブする道の向こうに、それは見えてきました。
門的なもの発見!
とうとう寿楽園に到着したようです。
門的なものの奥、今歩いてきた道の真正面には、何かの建物が崩壊していました。 東屋かしらと思ったけど、扉のようなものも見えるし・・・。木造の門だったのかしら?
さて、門の奥、崩壊した建物の左側に目を向けると、折れた枝や倒木に埋もれそうになったアレがありました。
上磯町歴史散歩に載っていた石造りの門!
これが一番見たかったので、3枚も画像を載せてしまいました。
よく見ると、丸い縁石で2段ほど高い場所に作られているのですね。
でも、もう倒木だらけで近づくのも大変な状態です。
ですが、襲いくる植物の攻撃に耐え、まだまだ立派に重厚に佇んでおりました。
時間があれば、もう少し眺めていたかった・・・。
そして、門扉状の石の前には石碑がありました。
この石碑については手元に資料がないので、何の石碑かわかりませんが、「合名会社」の下に秦家の方々と思われる人物の名前が4名ほど見えました。ゆかりの方が建てたものなのでしょうね。
そのさらに奥。
石段の上に石碑が。
「秦壽翁之奥津城」と書かれた石碑と、奥には祠が。
比較的新しい石碑で、少しデザインがお墓っぽくもあり、雰囲気もどことなく感じるものがあったので、こちらに足を踏み入れる際には思わず一礼して園内を拝見しますと声に出して御挨拶しました。
奥の祠はかなり古いもののようでしたが・・・。
「壽翁」とは、この庭園を設計した秦貞三郎その人を指しますが、果たしてこれは?
帰宅してから気になって調べたところ、「奥津城(おくつき)」とは神道でのお墓のことでした。
こちらに墓碑があることは全く知らなかったので、壽翁の前で何か粗相はしなかっただろうかと慌てて自分の行動を顧みましたが、終始ニヤつきながらブツブツと独り言を言いつつ園内を歩いていただけだったので、たぶん大丈夫でしょう。
・・・・・・いや、大丈夫じゃないよ!十分怪しい人だよ!
でも粗相はしていないので、そこは最低限大丈夫のはずです。
きちんと(かどうかわかりませんが)とりあえずご挨拶しておいて良かった!
続いて、金婚記念碑(大正6年6月 建石)です。
「上磯町歴史散歩」には、この台座に刻まれている文章がそのまま掲載されています。
この金婚記念碑は、庭園を造った秦貞三郎氏のご両親の金婚を記念して建てられたものとあります。
傾斜地にある寿楽園ですが、ふと気になって丘を登りきってみましたら、畑がどーんと広がっていました。
鬱蒼としているのは寿楽園のあたりだけのようで、下界とは隔絶された世界に入り込んでいたような気になっていた私としては、思わぬ人の気配に、安心したような残念なような・・・。
さて、気を取り直して探索を続けます。
さあ!こちらが島崎藤村の残した碑文、「壽翁遺跡碑文」です!!
って、逆光で真っ黒じゃないかあああああ!
私のバカバカ。
あんまり真っ暗すぎなので、フォトショで明るくいじったものがこれです。
「花長者水にも富める眺めかな 小波」
碑文は、秦家の三女冬子と結婚した島崎藤村が、壽翁還暦の記念に残したもので、上部の句碑は「巌谷小波」。
こちらの碑文は文学的にもきっと価値のあるものだと思いますので、「上磯町歴史散歩」より内容を引用させていただきます。
地ヲ相スルコト拾數萬坪南ハ葛登支岬ニ續キテ津軽海峡ニムカヒ
東ハ凾館港ヲ隔テヽ臥牛山ヲ望ム植樹ニ拾餘年ニシテ赤坂一帯ノ
地ヲ松杉ト化シメタルハ凾館ノ秦壽翁ナリ氏ハ通称貞三郎ト呼ビ
文久元年五月上磯町ニ生ル明治二十五年秦氏ヲ嗣ギ養父隠居ノ
後ハ三代目トシテ家督ヲ相續セリ性山林ヲ愛スルノ念深ク地ヲココニ
撰ミテ植樹ニ志シタルハ實ニ明治三十年ニアタレリ林中ノ庭園マタ
壽翁ガ設計ニカヽル池ニハ清キ水ヲ湛ヘ梅櫻影ヲ映シ花時来リテ
訪フモノノタメニ開放スルコト惜マズ人呼ンデ公園トナスニイタレリトイフ
半生ノ回顧モマタ空シカラズト言フベシ壽翁スデニ齢六拾壹コトシ
還暦ノ祝ヲ期シテ斯ノ林ニ紀念ノ石ヲ置クコトハ後ノ世ノ子孫ノ爲ニ
長ク事業ヲ語ルモノトイウベキナリ予ハ壽翁ト姻戚ノヨシミ浅カラヌ
モノカラ斯ノ文ヲ草シテ悦ビノコヽロヲ寄ストイフ大正十年五月
嶋崎藤村識
この遺跡碑文は、もっとも高い場所に位置していました。そこまでの道はもうほとんどなくなっていたので、植物が元気モリモリの時期には一番近づくのが大変な石碑になりそうですね。
ちなみに、巌谷小波さんの句碑は、上磯町歴史散歩によれば昭和14、5年ごろに建ったと読める書き方がされています。もともと藤村の碑文とは別物だったのでしょうかね?
ここで、少し島崎藤村のお話を。
島崎藤村の出世作は「破戒」ですが、彼はこの「破戒」を寝る間も惜しんで人生をかけて書き上げ、自費出版するべくその資金を調達するために明治37年に義実家のある函館を訪れ、400円を援助してもらっています。
それからも生活費が底をついて友人に借りたりなどして何とか過ごしていたようですが、この最も苦しい時期に長女から三女を病気で相次いで亡くしています。
しかし、明治39年、自費出版した「破戒」が好評で、何度も再販されることとなり、これがきっかけで大手の出版社から次々に作品が出版され始め、文壇に確かな地位を築いたとのこと。
そんな苦しい時代を支え、さあこれからというときに、妻の冬子が四女を産んですぐに出血のため命を落としました。明治43年のことでした。
つまり、大正10年に島崎藤村がこの碑文を贈ったとき、妻の冬子はもう鬼籍の人となっていたのです。
冬子の父である秦家三代目慶治、冬子の姉の夫である秦家三代目壽翁貞三郎からの資金援助がなければ、「破戒」は生まれなかったかもしれないわけで、島崎藤村は強く恩を感じていたのでしょうね。
藤村の残した碑文から少し下がって、左端に金婚記念碑の裏側、右端に祠と奥津城、中央木の向こうに最初の石造りの門扉という全体像を。
さらに下がったところに石のテラス的な場所。
倒木がものすごいです。
倒木がひどくてわかりづらいですが、大きくて見事な庭石がごろごろ。
枯れていますが、水が流れていたような作りです。
橋のような石組もありました。
往時は素敵だったのでしょうね。
と、ここでタイムアップです。
車に家族を残してきていますから、これ以上の探索はできません。
一番見たかった石造りの門。
そして、大正時代に建てられた碑も確認できました。
存在を知ってから、何年も行ってみたかった場所だけに、本当に感慨深かったです。
欲を言えば、もう少しここに留まって最も美しかったお庭を妄想したかったのと、ここに建てられたという和洋折衷づくりの豪壮を極めたお屋敷跡を見つけたかったのですが・・・。前者はまだしも、後者はたぶん無理でしょうけどね。
それと、かなり苦労しそうですが、ぜひ緑真っ盛りな時期の寿楽園も見てみたかったりもします。いやー無理だな。うん。
というわけで、誰得だよ!という寿楽園探訪記でございました。
特にオチも事件もありませんでしたことをお詫びいたします。
でもね、以前の記事にも書きましたが、
教科書にも載っているような文豪の、この場所無しでは文豪が文豪にならなかったかもしれないというそのものが、またはそのゆかりのものが、こうしてただ朽ち果て人知れず自然に還っていこうとしているのを、ただ黙って見ているのも寂しいのでね。
立派で壮麗だったというお庭まで復元する必要はないから、石碑たちだけでも苦労せずに見られるようにならないかしらと願っています。
あ、でも簡単だからってあの場所から移転とかは無しで!寿楽園にあるからこそだし、「土地の記憶」ってやつをもっと大切にした方がいいと思うし。
すぐ近くの当別トラピスト修道院の前庭には、トラピスト修道院で文学講師をしていた三木露風の詩碑もありますし、寿楽園より海側の国道沿いには新しい三木露風の碑もお目見えしています。
函館には言わずもがなで文学史上有名な方々の史跡がわんさかあるのですから、そちらと合わせて「文学街道」とかなんかもっとイイ名前を考えて、官民で協力して何とかできないものでしょうか。
街ごとに観光開発じゃなくて、道南圏全体で考えていくべき時でしょう。
ひとまずここは、草刈と看板設置程度でなんとかなりそうなのですから、建築物を耐震基準を満たして建て直し保存などしていくよりも、余程安価で済みそうです。
あれ?珍しく真面目なこと書いちゃった。てへぺろ(・ω<)
何も知らないど素人が短絡的な考えをつぶやいちゃったというだけです。すみませんすみません。
おまけ
寿楽園の往時の写真は発見できませんでしたが、島崎藤村と結婚した秦家三女の冬子さんの写真がありました。
島崎藤村出身地の長野県小諸市ホームページをご覧ください。
こちらには藤村記念館があります。
参考文献
- 「上磯町歴史散歩」 上磯地方史研究会編
- 「屋根のない博物館ホームページ」内 「島崎藤村の主な年譜」
- 「函館文学散歩」 内 「10、秦家」
コメント
とうとう念願叶いましたね。
もうすっかり雪も融けていますね。
奥津城ってやっぱりお墓だったんですか。
12月に行った時、あの辺りから誰かに見られてる気がずっとしてました。
歴史的背景がある場所なのに、廃墟ってのは実に勿体無いですが、またバブルにでもならない限り庭園の復活はないでしょうね。
しかし、石は半永久的に残りますから、石門や石碑は時代を超えて残るでしょうね。
次回作「SPACE BATTLESHIP 寿楽園」に期待します(笑)
黒ウサギさん、コメントありがとうございます!
黒ウサギさんの記事があったからこその今回の探訪ですので、本当に感謝しています。
そう、奥津城の意味を全く知らなくて・・・。
私はほとんど霊感的なものはないと自分では思っているので、念願の場所に来られたという喜びが大きかったこともあって、怖さなどは全く感じていませんでした。
鈍感すぎるのかもしれません(笑)
ただ、あの一角の雰囲気が他と違っていた気がしたのは正しかったんだなぁと、少し自分の勘に自信を持ちました。
北斗市さんの立派な無料キャンプ場の維持費をちょっぴりいただいて、草刈りだけでもしてみてはいかがでしょう、なんて。
でも、そう簡単にはいかないだろうし、いろいろ難しいですよね、きっと。
「SPACE BATTLESHIP 寿楽園」ですか!?
まず主演が私じゃなくてジャニ○ズタレントさんじゃないといけないので、予算が・・・。
艦隊戦はプラモでなんとかするしか(笑)
以前の記事は、本当にここなのか?…って感じでしたが、見つかって良かったですね(^▽^
立派な建物も、手入れされないと植物に覆われてしまうものなんですね。植物やべぇ!
なりたりさん、コメントありがとうございます!
植物の力は本当に物凄いです。
以前行った時期だと、植物がわっさわっさで見通しは悪いし、もし無理矢理徒歩で進んだとしてもずっと藪漕ぎ状態で、石碑や構造物の遺構、庭石など見つけられない可能性が高かったなーなんて思っとりました。
ここは25年ほど前にはまだ公園として機能していたようなのですが、手入れされなくなってから現在までの間に繁茂した植物の力が圧倒的過ぎました。
ところどころに人工的に植えられたのであろう立派な松などもあったりしました。
今年は、例年に無く雪が多かったこともあって、倒木や雪の重みで折れたと思われる枝なども多数でした。
ちょっとだけラピュタを思い出したのは秘密です。
数十年前寿楽園にいきました。
管理しているおじさんが私たちについて歩きいろいろ説明してくれました。
そのとき、ここのもみじは京都嵐山からもってきたもみじでとてもきれいだと言っていました。
公園はきれいに整備されていて、丘から津軽海峡や灯台が見えてデートスポットの穴場でしたが、こんなにも荒れ果てているのですか?
残念です。
パパトントンさん、はじめまして。
寿楽園に足を運ばれていたとのこと、とても羨ましいです。
復活に当たり、京都からも立派な庭木をお取り寄せしていたのですね。
当時のお庭をご存知の方からすると、現在の状態は本当に残念としか・・・。
本文にも書きましたが、残されている石碑やこの地の歴史などを鑑みれば、見学できる程度にまでは整備してほしいと思います。北斗市の重要な財産だと思うのですが・・・。
ねりこさん、初めまして。
密かに何度も通って拝見していました。
寿楽園を気にかけていただいて、感謝しています。
もうご覧になられたかも知れませんが、1988年、90年代の
写真であれば、こちらでほんの数枚だけ見ることができます。
http://photodb.hokkaido-np.co.jp/list?d=1&l=20&o=d&q=%E5%AF%BF%E6%A5%BD%E5%9C%92
今回はご挨拶まで。
またねりこさんの記事で道南の勉強をしに伺います。
ファルコンさん、はじめまして!
つたない記事ですが、ご覧いただきありがとうございます。
そしてそして!
こんな写真があったのですね。全く知りませんでした。
教えてくださって本当にありがとうございます!
88年の写真を見ると、本当に素敵な憩いの場だったことがよくわかりますね。
その後、写真のキャプションで知ったのですが、汚職事件に関わりがあったのですね・・・。
私はまだこの当時未成年で新聞などで事件を何となく知る程度だったので、全く知りませんでした・・・。
以前、このあたりにリゾート地を造る構想があったとコメントをいただいたのですが、このことだったのかと合点がいきました。
とにもかくにも、まだ美しいころの寿楽園を垣間見られて、嬉しい限りです。本当にありがとうございます!
はい、汚職事件がなければ、秦家の手を離れてとはいえ、
もう少し何とかなっていたのではと思います。
申し遅れました。私は秦家の末裔の一人です。
寿楽園へ行った経験のない世代ですが、母は幼少時代から
高校を卒業して大学の為に一時函館を離れるまでの間、
よく遊びに行っておりまして、その話を聞いています。
碑に刻まれた「合名会社」の下にある秦家の名前。
貞三郎の息子、理四郎、孝一、敬三郎。その三人の姉、
秀の夫で婿養子の茂三ではありませんでしたか。
秦紙店から秦商事になる会社を継いだ茂三の息子、
良平は私の祖父です。
もしよろしければ、寿楽園の戦後にあった空白期間を
ここでお話しさせていただきたいのですが。
ファルコンさん、いらっしゃいませ。
なんと、ゆかりの方だったのですね。
記事を見ていただいてコメントまでいただき感激している反面、
ファルコンさんにとって思い入れの深い場所の現状をお見せしてしまい、悲しんでおられるのではと複雑な気持ちでいます。
碑に刻まれたお名前ですが、サイズの大きな元画像で確認しましたら、
ファルコンさんのおっしゃるとおりのお名前でした。昭和5年に建てられたもののようです。
寿楽園についてのお話をそのゆかりの方からいただけることは、
私はもちろんのこと寿楽園を知っているすべての人にとってありがたいことだと思います。
この場所でよろしければ、どうぞお使いください。
お返事が遅くなりました。
ねりこさん、とんでもありません。
確かに今の寿楽園の状態は残念に思います。
しかしながら、ねりこさんを始め、ネット上で「歴史的に価値のある碑だけでも
何とかしたい」と仰る方、寿楽園自体にまで想いを馳せる人たちが
いらっしゃって、嬉しい気持ちになりました。感謝して止みません。
同時に秦家の者として、ご期待に添えず申し訳なくも感じます。
皆さんに物事を伝え遺す価値を教わったような気がして、一族代々で
もっとしっかり歴史を形に残す努力ができていればなと。
少しお話を進めますが、「上磯町歴史散歩」にあった、この一文です。
>太平洋戦争が始まるとともに庭内も荒れ、戦後は一時期、原野に還るほどになった。
>近年、復興整備されつつあるが、往時の姿までにはもう少し時間がかかりそうだ。
昭和23年生まれの私の母は、幼少時代~高校を卒業するまで
よく遊びに行っていたと聞いています。
昭和40年頃迄ですね、園内は充分に綺麗で母の証言は
ほぼ本に書かれているとおりの様子ではないかと。
近くにある海辺へ続いていて、さながらプライベートビーチ状態。
祖父も秦商事の部下を連れ、会場等に寿楽園を使用していました。
ただ、建物は母が少女時代、既に大きな別荘が古くなっていまして、
平屋の然程大きくないものに建て替えられたと。
大きな建物の頃は、海外から集められた物が置かれ、特に印象的なのは
中国の豪華な家具や物ばかりで飾られた部屋だったと言います。
また、祖母が「昔はもっと綺麗だったのよ」と話して聞かせた程。
母はその時点で充分綺麗だと思っていた園内、それが更にと言えば、
どれだけのものだったのか想像をめぐらせるばかりです。
母は東京の大学へ行く為に道南を離れ、社会人になり、結婚。
昭和47年生まれの私が幼稚園年長の頃、函館に戻った時は
既に秦家の手を離れていたようです。
「太平洋戦争開始後に荒れ始め」とありますが、戦中に少々荒れた程度で
戦後すぐに続いて「原野に還るほどになった」のではなく、全盛期には及ばずも
一度母が通っていた寿楽園の状態まで持ち直したのだと思います。
原野に還るほどになったのは、恐らく秦家の手を離れた後ではないかと。
長くなりましたので、一度これで失礼致します。
またそのうちに伺いますので。場をお借りしました。
説明不足を訂正します。
>ほぼ本に書かれているとおりの様子ではないかと。
これは「本に書かれた、綺麗だった頃の寿楽園の様子」にです。
連投失礼しました。
ファルコンさんの大切なコメントのお邪魔になってしまうと思い、何もお返事をしておりませんでした。
ファルコンさんやその家族の方々の大切な記憶や道筋をここに記していただけるのは、本当に名誉なことと思っております。
また、お時間ができましたらいつでもお越しくださいね。
何とかしたいです。
いまはどうなってるの