箱館戦争 -1868~1869年(慶応4年/明治元年~明治2年)-
1867年(慶応3)年に大政奉還、王政復古の大号令 が行われて新政府が立ち上がると、旧幕府側を掃討したい新政府側とそれに抵抗する旧幕府側で争いとなり、戊辰戦争が起こりました。 1868(慶応4)年ついに江戸城無血開城となりましたが、それでも徹底抗戦を続ける者が江戸を離れ、北へ北へと戦線が伸びていきました。
榎本武揚ら一部の旧幕府軍は、旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、仙台にて戊辰戦争に参加していた土方歳三や大鳥圭介などの旧幕府軍を収容、森町鷲の木の浜に入りました。箱館の五稜郭を占拠し、蝦夷地は旧幕臣のための開拓地であるとしました。森町から箱館への進軍途中では、北斗市(旧大野町)、七飯町峠下・大中山、旧南茅部の川汲で戦闘がありました。
その頃松前藩では少し前に勤王過激派正議隊によるクーデターが起き、佐幕派だった家臣が殺害・あるいは自害させられ、勤王派が藩政をとっていました。
旧幕府軍は、松前藩に対して降伏を薦める使者を2度派遣しましたが、2度とも殺害されてしまいます。やむをえず松前攻略が決定されて土方軍が松前へ攻め入り、松前藩では旧式の装備で応戦しましたが、新式の装備と艦砲射撃には勝てず、旧幕府軍が勝利しました。
この時、藩兵が町の各所に火を放ちながら藩主のいる厚沢部町館城に逃亡し、この戦火で町の3分の2が焼失したといわれています。また、旧幕府軍は逃げ遅れたりなどして捕虜となった松前藩士と一人一人面談、土地へ送り返したり藩主のもとへ行きたい者は行かせたり、おのおのの望むようにしたといいます。城の中に残された婦女子も、館城にいた藩主のもとへ送り届けたそうです。
この松前一帯の戦闘で、旧幕府軍は当時最強といわれた軍艦「開陽丸」を江差に停泊させていましたが、暴風により座礁してしまいます。そこで、軍艦回天丸と運搬船神速丸が開陽丸の救助に向かいましたが、乗組員は全員脱出したものの開陽丸と神速丸が沈没してしまいました。開陽丸が沈没していく様子を見ていた榎本と土方が松の木を叩いて嘆き悲しんだ、という話が伝わっており、その松の木が今でも江差に残されています。開陽丸を失ったことは軍事上かなり大きな損失で、のちの新政府軍の蝦夷地上陸を簡単に許してしまう原因ともなりました。
さらに厚沢部の館城で戦闘となり、松前藩が敗れて藩主徳広(のりひろ)は青森へ敗走しましたが、元来病弱だったためか敗走先で喀血して倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。
この時、館城には家系図、御朱印などの貴重な品々が残っていたそうですが、それらは一度五稜郭へ送られた後、箱館の民間人に託されて松前家に送り届けられました。この頃季節は真冬になっていて、戦闘は一時中断、雪解けまで津軽海峡を挟んでのにらみ合いが続きました。
また、総裁である榎本武揚は朝廷に嘆願書を提出しています。
榎本には、新政府によって徳川家の領地が大幅に削減された旧幕臣たちを救済するために、彼らを蝦夷地に移住させて広大な土地の開拓に従事させ、同時に北方の防備もつとめさせようという狙いがありました。新政府にとっても必ずしも悪い話ではないと主張したのですが、当然この願いは聞き入れられるどころか全く無視されています。
ここへきて軍資金も減少し、箱館の住民に重税をかけるなどしていたので、当時の住民からは反感を買っていました。
さらには、豪商から軍資金を接収しようという案も出されましたが、土方歳三が猛反対してさすがに取りやめになるなど、かなり苦しい状況でした。新政府軍の新造艦を奪取しようと宮古湾海戦が起こりましたが、失敗に終わり、軍艦高雄を失うなどさらに厳しい状況となりました。また、榎本武揚はプロシアのR・ガルトネルとの間に、「七重村開墾条約」を結びました。この条約は七重村とその付近の千ヘクタールもの広大な土地を99年間借り受け、その代償として農民に西洋の農業を教える、というものでした。
戦争終了後にこの土地を取り戻すために非常に苦労し、1870(明治3)年ガルトネルに対して多額の賠償金を支払うことで解決をみました。
1869(明治2)年4月9日、ついに新政府軍約2000名がが乙部に上陸しました。旧幕府軍の200余名が抵抗しましたが、先鋒の松前藩士によって撃退されました。
この松前藩士は松前城攻略の際に捕虜となり、旧幕府軍が松前藩主の元へ送った者たちだったそうです。
その後、新政府軍は江差から木古内、松前、大野の二股口の3方向に分かれて進軍し、松前城奪還、木古内では大鳥圭介隊を撃破するなど、箱館へ肉薄してきました。
唯一、二股口では旧幕府軍が土方歳三の采配で連勝を続けていましたが、木古内が突破され挟み撃ちにされる危険があったため、やむなく二股口から五稜郭へ撤退しました。
5月11日、新政府軍は箱館総攻撃をかけました。
新政府軍は五稜郭北方にある四稜郭を陥落。箱館湾では海戦が行われ、旧幕府軍の軍艦蟠竜が新政府軍軍艦朝陽を撃沈すると、一時旧幕府軍が勢いを盛り返しましたが、函館山の裏側の海岸(寒川)から密かに上陸していた新政府軍に奇襲されて、付近にいた新選組をはじめとする旧幕府軍は弁天台場(現在の函館どっく)まで撤退しました。
弁天台場を救出しようと少数の兵を率いて向かった土方歳三が、一本木関門近く(現在の若松町付近)で戦死し、箱館市中は新政府軍の手に落ちて、旧幕府軍海軍も壊滅しました。
15日には孤立していた弁天台場が降伏を表明。 16日には徹底抗戦を貫いた千代ヶ岡陣屋(現在の千代台・中島町)で中島三郎助親子が戦死するなど全滅しました。(写真は土方歳三最後の地碑)
この時、新政府軍の総指揮を執っていた黒田清隆は再三榎本に降伏を勧めていました。しかし、榎本はかたくなに拒否し、最後まで戦い抜く、ただし他の者に相応の土地を与えてくれるなら潔く裁きを受けよう、と返答していましたが、返答と共に、彼がオランダ留学時代に全文書写した「万国海律全書」を、戦火に巻き込まれるのは忍びないと黒田宛に渡しました。
この本は当時の国際法について書かれた大事な物で、日本が今後開国して他国と交流していくにあたり非常な助けとなりうる書物でした。
これに感激した黒田は、返礼として酒5樽を五稜郭に届けました。また、同時に総攻撃開始の旨も通知しました。このため五稜郭内は動揺し、榎本は、戦争の責任を一身に負い切腹を図りますが、彰義隊頭取大塚霍之丞らに制止されています。
18日、ついに五稜郭も降伏しました。ここに箱館戦争が終結したのです。
戦後、死罪も免れないといわれていた榎本ですが、黒田の「有為な人材を失うことは国家の損失」という理念に基づく必死な助命嘆願活動や、フランス軍将校が旧幕府軍に参加していたこともあり、諸外国との関係が深い榎本を罰するのは政治的に難しく、また官軍捕虜を人道的に扱っていたことで、東京や奥羽方面からも助命嘆願がありました。そして1872(明治5)年赦され出獄、新政府に仕えました。
のちに、榎本と黒田は開拓使に任ぜられ、二人揃って入閣したり、互いの子同士が結婚するなど、親しい間柄となったようです。(写真は碧血碑。1875(明治8)年に建立された箱館戦争戦死者を弔う旧幕府軍側の墓。)
碧血碑
箱館戦争で敗れた旧幕府軍戦死者の遺体は、新政府軍の目が厳しく野ざらしとなっていました。そこで、侠客柳川熊吉と建築業者大岡助右衛門が遺体を集め、実行寺境内に埋葬しました。
それを知った新政府軍が怒り処刑しようとしましたが、熊吉は、鼻や耳をそいだりせず早く首を切れ、と覚悟の程を示すと、薩摩藩士で軍監田島敬蔵がその意気に感じ入り、放免しました。 1871(明治4)年函館山山腹に土地を買い、実行寺付属地として約800名の遺骨を改葬し、後に政府の許しを得て榎本武揚や大鳥圭介らの協力で碑を刻み、1875(明治8)年5月碑を建てて祀りました。
「碧血」とは、中国の「義に殉じた武人の血は三年で碧色になる」との故事にちなんだものです。
これとは別に、厚沢部町稲倉石に松前藩士死者を弔った碧血碑もあります。
この戦いで箱館の町は甚大な被害を受け、800戸余りが焼失したと伝えられています。この火事の被害は弁天台場の旧幕府軍が放火したといわれ、「脱走火事」などと名づけられています。
高竜寺は戦争時に箱館病院の分院となり旧幕府軍の兵士が入院していましたが、 5月11日の新政府軍総攻撃で政府軍の松前藩・津軽藩士などが高竜寺を襲い、発砲されたことに腹を立てて職員や入院者十数名を惨殺し、さらに放火するという事件もありました。この時の入院兵の多くは会津藩士だったため、1880(明治13)年に会津ゆかりの方々によって、高竜寺境内に「傷心惨目の碑」が建てられました。
また、この戦争で旧幕府側の医師として箱館病院頭取となって尽力した高松凌雲は、敵味方区別なく傷病者を治療し、日本での赤十字運動の先駆者とされています。新政府軍の負傷者が運ばれてきた際、直ちに収容し、入院していた旧幕府軍の兵士に混乱や反発が起きましたが、どんな者でも負傷者にはかわりがないと説き、毅然とした態度で治療に当たったといいます。新政府軍が病院に迫った時にも、体を張って赤十字精神を説きこれを退けました。この病院で治療を受けた患者は、1340名にのぼるといいます。