バージョン1
松前家第13世道広の前室は、前右大臣花山院常雅の息女初姫で、明和8年(1771)入輿した。
初姫は日頃京都九条稲荷を尊宗していたので、蝦夷地に来るに当たって九条稲荷は姫の道中を守護するため、多数の狐を付き添わせた。
天明8年(1778)南部の山伏大昌院という者が箱館にいたが、当時近海がまったく魚が捕れなくて人々が苦しんでいた。
そこで道広は再び魚が捕れるように、大昌院に百日の修法を命じた。
大昌院は毎晩弁天浜の海中に飛び込み、経文一巻ずつを読みつつ苦行を開始した。その第一夜より弁天堂の上に、世にも珍しい一匹の黒狐が篭って、それはついに99日に及んだ。
その99日目すなわち満願の前夜、大昌院の身辺に黒狐が現れて、
「自分は京都九条の狐である。初姫君が入輿した際に見送りのため来道した。姫君がご逝去された後、他の狐はみな故郷へ帰ったが、私は知内の狐と契りを結び子まで儲けたため帰郷せずにいた。
そして、天明2年(1782)藩主が狩猟のため知内へ来た時、自分は道端に隠れてその行列を見ていたが、その時不運にも殿の目に留まってしまい、珍しい黒狐だ、早く討ち取れと言われ、ついに藩士厚谷伴蔵の筒先に落命してしまった。それ以来未だに魂が浮かばれずにここに彷徨っている。
もしわが魂を一祠をもって祀ってもらえるなら、長く城下の守護をしよう。そして、このことを藩士藤倉八十八に伝えて欲しい。」と言った。
享和2年(1802)、城下唐津内沢奥に一社、知内に末社を建てて、共に玄狐稲荷と呼んだ。
(北海道の口碑伝説より)
バージョン2
元々尻内山に黒狐が棲むという噂があり、道広がこれを欲して家臣に狐狩りを命じた。
家臣は黒狐を見つけて銃口を向けたが、天がにわかにかき曇り一寸先も見えない闇となって見失った。
今度は厚谷伴蔵を狩りにやったが、黒狐に銃を向けると再び真っ暗になってしまった。 そこで伴蔵が「私は君命によって撃つのだ。たとえ幻術で一旦免れても、必ず撃たねばならないのだ。 早く幻術を解き安らかに撃たれよ!」と大声で叫ぶと、闇はたちまち消えて黒狐が姿を見せたので、 これを射止めて殿に献上した。
殿は大いに喜び、その肉を家臣中津源兵衛に与えたが、その源兵衛は間もなく聾者となり3年目に病死した。
また、厚谷伴蔵も悪病におかされて死に、その子もある罪によって追放されてしまった。
狐の皮は、道広が家来に命じて干させていたが、毎晩一匹の狐が訪れてその皮を返して欲しいと懇願した。 家来は道広にこのことを言うのだが、道広はそれを許さないでいると、ある日いつの間にか皮が何者かに引き裂かれてしまった。
そうしているうちに、ある者にこの狐がとり憑いてしまい、 「鰊をとらせぬようにしてやる」とか「自分はかつて花山院家から来た使いの狐だが、妻に惹かれて帰郷せずにいるうちに 災難にあってしまった」とか口走っていた。 すると、本当にそれ以来鰊が捕れなくなってしまった。
そこで、驚いてこの黒狐を「玄狐稲荷」として祀った。
(北海道の伝説より,須藤隆仙)
レポートと解説
玄狐稲荷は雷公神社(知内町)神主さんのお話によると、現在松前の熊野神社に合祀されているそうです。
以前は、代々松前藩で家臣を勤めていた新井田家のお庭に建っていたそうです。
お社の移動のため玄狐稲荷の古いお社を壊したところ、お社の外見の大きさと中の空間の大きさが違っていたため、よく調べてみると隠し扉を発見。
扉には当時の松前藩家老の筆による文字が書かれた紙で、厳重に封印がされていたそうです。中を見てみると、そこには狐と思われる毛が出てきたそうで・・・。
この事実は「ほっかいどうむかしあったとさ~道南編~」にも掲載されていますが、雷公神社神主さんも同じお話をおっしゃっておりました。
知内の玄古稲荷
玄狐稲荷は知内にも同じ名の末社(玄古稲荷)が建てられましたが、現在湯の里地区の湯の里稲荷神社に祭られています。
知内町雷公神社略記には、
玄古稲荷社
稲荷社は旧城内社として北の丸にて祈祷のところ19代大野土佐重正、命により当所に奉祀
(建立)寛政3年(1791年)
とあります。
狐について
文化3年(1806)、知内山で一匹の黒狐をとったことがあり、その後この狐が大いに祟りをし、松前家には種々の凶事が続き、鰊も甚だ不漁になった(文化年間、東密元槇「東海参譚」)。
玄狐稲荷のお話と似ていますが、年がずれています。
こういった狐に祟られるという話は至る所にあったらしく、鰊の漁場では忌み言葉として狐とは言わずに「いなり」と呼んでいたそうです。
しかし、古い書物には「北海道の狐は人をだまさない」とあります。ただ、時代が下ると徐々に祟り話が現れてくるそうで、これは本州の文化が移入されてきたもののようです。
特に黒い色の狐は特別視されており、殺すと祟りがあるとされました。
玄狐の他にも、黒狐を捕って松前の専念寺に葬ったという話(「蝦夷草紙」)や、函館の尻沢辺(現在の谷地頭付近)でニシン網を干していたものに、黒狐が引っかかって死んだので、稲荷社を建ててその皮を御神体として祀り、黒光(こくこう)稲荷と称して毎年4月の初午に祭りをしたという話もあります。
また、アイヌも黒い狐を「シトムベカムイ(神の悪漢)」と呼び、畏敬していたそうです。
もう一つ、狐のお話。
松前藩主矩広の近侍で、門昌庵事件の際の柏巌の見届け役。
のち、藩主矩広が赤狐が池畔に眠っているのを見て、重好に命じて銃で撃たせ、狐が一命を請うようにしたが殺した。
その夜から重好は発熱し、苦悶して没する。
矩広は狐を城内に埋め、朱塗りの社を建て赤狐大明神とし祀ったが、厚谷家の子孫からは若死者や狂人が出、家は断絶。
(「函館・道南大事典」「厚谷重好」項より)
「玄狐」のお話と似ているんですが、時代は6代藩主矩広の時代(1659~1720)。
「玄狐」のお話は、9代藩主道広の時代(1754~1832)なので、違うお話なのでしょうか。
狐を撃った藩士の名前が「厚谷」で共通していて、その末路も同じですね。
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[…] 北海道松前町西館の玄狐稲荷は、非常に珍しい全身が黒い狐の姿をしているという。 […]