義経伝説

イタンキ

南茅部町安浦は、もともと「板木(いたぎ)」といった。この「板木」はイタンキからきた地名で、菅江真澄の「蝦夷迺手布利(えぞのてぶり)」によると、昔、義経が水を飲んだ椀が波に流されてここへ辿り着いたので、「イタンキ」となったという。同様の地名は室蘭にもある。


欣求院の仏像

今は松前町光善寺に合併された欣求院(ごんぐいん:松前)には、義経が津軽海峡を渡った際に海上の安全を弥陀如来に祈り、無事に渡ることが出来たので御礼として、仏像千体を作り、祭ったという。


船魂神社

義経が津軽海峡を渡っていると、海が大荒れとなりいよいよ船が沈むかと思われた時、船魂明神の奇跡によって、北海道に上陸した。
水を探していると、童子が忽然と岩の上に現れ、指差す方を見ると水が滾々と湧き出ていた。後に、この水は船魂明神の宣託水と呼ばれた。
また、函館八幡宮の石の鳥居の下に、弁慶の足跡のついた石を埋めてあるとも言う。

レポートと解説

欣求院の仏像について

実は江戸初期に欣求という僧がそれまでにあった無縁寺を再興して欣求院としたものだそうです。欣求は万治2年(1659)に弥陀像を中心に多数の仏像をまつって、千体仏供養をしましたが、それが後年義経の仏像と噂されました。
海上の安全を祈願した仏像だとのことで、当時の船乗りたちが方々へ持ち去ってしまい、のちに豪商伊達家が仏像を補いましたが、明治元年の大火で焼けてしまったとのこと。大きな弥陀像は日高の平取町の義経神社に運ばれ、弁慶作としてまつられたのだそうですが、廃仏毀釈で放出されて今は函館の称名寺にあります。

船魂神社

他にも平安時代に僧良忍が来たという伝説もありますが、ここは中世からあった観音堂で、後に波分不動や船魂神(船の守護)の信仰が加わったといいます。