戸井線跡

函館から五稜郭、湯の川を経由して戸井に至る鉄道は、津軽海峡を防備するために戸井に築かれた砲台までの軍需資材や兵員の輸送を主目的として、また、青函航路の代替ルートの連絡線として計画されました。

昭和12年(1937)年に着工され、現在のJR五稜郭駅から戸井駅まで東へ29km、途中に東五稜郭、湯の川、銭亀、渡島古川、石崎、小安、汐首、弁財そして終着の戸井の各駅の設置が計画されていました。
しかし、昭和16(1941)年12月に太平洋戦争が始まり、資材不足もあり1943年(昭和18年)に工事は中止され、敗戦後も工事の再開はありませんでした。

本通テーオーストア前~有斗高校北~湯川町国道278号交点間を結ぶ歩行者自転車専用道路「緑園通り」は、戸井線の遺構を函館市が買い取って遊歩道にしたもので、他にも市道として利用されています。
緑園通りに架かる古いコンクリート造りの跨線橋は、当時の遺構です。
多くの遺構は、旧戸井町に残されていて、汐首灯台そばにあるアーチ橋(画像1枚目)や、汐泊川に残されている橋脚(画像2枚目)がよく知られていて、国道278号線から見ることができます。

一方、工事に多くの朝鮮人強制労働者が従事し、殉職したことはあまり知られていない事実です。
海岸線は川や岩石が多く、特に汐首から弁財に至る区間は殆どが火成岩で難工事となり、工事を請け負った熊谷組から多くの死傷者が出たといいいます。
函館市史編さん室だよりには、当時の様子を知る人の証言として、次のような話が掲載されています。

真っ赤な木綿の上衣に素足で、日本語も話せない人が逃げ出し、脱走を知った飯場の棒頭が六尺棒や日本刀を持って探し回っていたことがありました。
汐首の橋脚付近にタコ部屋があり、その殆どが朝鮮人労働者、食事も満足に与えられず、飯場から脱走して私の家に逃げて来て、母がオカユを何杯も食べさせました。
敗戦後に陳、金、林さんという3人の朝鮮人が訪れ、感謝されたことも覚えています。

強制労働者の実数は戦後、軍関係者が資料を焼却し、実態は明らかになっていません。
しかし、函館本線敷設に関わる工事にも多くの強制労働者が従事していますし、北海道の近代化への道筋において、確かに存在していた事実なのです。
[google-map-v3 width=”350″ height=”350″ zoom=”12″ maptype=”roadmap” mapalign=”center” directionhint=”false” language=”default” poweredby=”false” maptypecontrol=”true” pancontrol=”false” zoomcontrol=”true” scalecontrol=”true” streetviewcontrol=”true” scrollwheelcontrol=”false” draggable=”true” tiltfourtyfive=”false” addmarkermashupbubble=”false” addmarkermashupbubble=”false” addmarkerlist=”41.71175163654833,140.9623146057129{}binoculars.png{}戸井線跡” bubbleautopan=”true” showbike=”false” showtraffic=”false” showpanoramio=”false”]