函館・道南地方の歴史 -先史時代から松前藩成立まで-

旧石器時代(~約1万3千年前頃)

北海道に人が住み始めたのは今から2万年以上前と考えられ、道内のあちこちからその頃の人が使った石器などが見つかっています。
道南では、知内町湯の里4遺跡で国内最古の旧石器時代(1万4千年前)の墓跡が発見され、平成3年に国の重要文化財となりました。また、今金町美利河1遺跡も今から1~2万年前の遺跡です。発掘調査により出土した大量の石器のうち、163点の石器が平成3(1991)年に重要文化財に指定されました。
当時の気候はとても寒く、海水面は現在よりも100mほど低くて、北海道と大陸とは陸続きでした。マンモスやナウマン象やおおつのじか、野牛などを追う狩人たちが行き来していたようです。この頃を旧石器時代と呼んでいます。
(画像は今金町ピリカ旧石器文化館)

縄文時代(約1万年前~2000年前)

この時代は主に狩猟と採集の生活で、道南地方と津軽海峡を挟んだ東北北部とは共通の文化圏が広がり、2つの地域で密接に交流していたようです。
道南の主な遺跡としては、函館市(旧南茅部町)大船遺跡が有名です。ここは縄文前期末~中期末(約5000~4000年前)の1000年間にわたって築かれた大集落跡で、平成8年度に調査された約3500平方メートルから92軒の竪穴住居と盛土遺構等が発掘されました。平成13年には国指定史跡となり、同地区の著保内野遺跡より1975年に発掘された中空土偶は平成18年に国宝となりました。

他にも北海道縦貫自動車道建設に係る発掘調査にて発見された、森町の鷲ノ木5遺跡出土の環状列石(ストーンサークル)などを筆頭に、道南各地に遺跡が点在しています。(詳しくは北海道庁・北の縄文ページをご覧下さい)
(写真は大船遺跡)

続縄文時代(紀元前3~紀元後7世紀頃)

弥生時代には稲や鉄の作り方の技術は知識のみ取り入れましたが、道南では気候の関係で稲をうまく作ることができませんでした。そのため、縄文時代から引き続き狩猟、漁猟、採集の生活が続きました。ただ、アワ・キビ・ヒエ・ソバの存在から、これらの穀物を栽培していた可能性が高いそうです。本州ではこの頃弥生時代ですが、北海道ではそれとは異なる文化に分かれたので、続縄文時代と呼ばれています。
この時代の道南の遺跡には恵山貝塚などがあります。

擦文時代(8世紀末頃~13世紀)

7・8世紀以降は本州の古代社会や大陸との交流も持たれ、農耕も取り入れた北海道独自の文化がつくられました。当時の土器には刷毛でこすったような模様がついていることから擦文時代と呼ばれ、本州での古墳・奈良・平安・鎌倉時代前期までの時代に当たります。本州と同様の土師器と須恵器を使用していたこともわかっています。この時代の人の墓からは鉄製の鎌や鍬、斧と共にアワやソバが出土していることから、ある程度農耕をしていたと考えられています。しかし、メインは相変わらず狩猟や漁猟であったようです。また、石器から鉄器へ移行していきました。この時代の道南にある遺跡は、上磯町矢不来3遺跡、函館市湯川遺跡、汐泊遺跡、八雲町トコタン2遺跡、上ノ国町ワシリ遺跡などです。

アイヌ文化時代(13世紀頃成立)

13世紀になると、擦文文化を代表する土器は姿を消し、アイヌ文化が成立したと考えられています。住居は竪穴住居から平地に建設されたチセに変化し、アペオイ(炉)を中心とした儀式やイオマンテ(熊の霊送り)の儀式なども整えられたようです。アイヌの人々が自らの歴史や文学(ユーカラ)などを口承していて、その口承からは自然と共に生きる姿を読み取ることができます。
(参考:その他、アイヌの文化や生活については「アイヌ文化入門」様が詳しいです。)

和人渡来~松前藩成立(15~16世紀)

津軽地方(青森県西部)にいた、鎌倉幕府北条氏より蝦夷管領(または蝦夷代官)に任ぜられた豪族、安藤盛季(後に安東・あんどうもりすえ)が、南部地方(青森県東部から岩手県北部)の南部氏と勢力を争っていましたが、安藤氏は戦いに敗れて蝦夷(現在の北海道)へ逃れました。1443(嘉吉3)年のことです。
1454年(享徳3年)には前述の安藤氏の一族安東政季が再び南部氏に追われ、河野政通、相原政胤、武田信広などを従えて渡道し、道南各地に「館」と呼ばれる山城を築き、主なものは道南十二館と呼ばれ、蝦夷地を実質支配し始めました。

1457(長禄元)年、志濃里(志海苔・しのり)の和人鍛冶屋と客であるアイヌ少年の間に起きた争いをきっかけに、コシャマインの乱が起こりました。道南十二館のうち十館が落とされるほどの勢いでしたが、最終的に1458年に武田信広が乱を鎮圧しました。
この軍功で力をつけた武田信広が蝦夷地に渡って来た和人をまとめ、その子蠣崎光広(上ノ国花沢館館主蠣崎氏の家督を継いだ)が、松前の大館へ移り、1514(永正11年)年安東氏に認められ、安東氏の代官として蝦夷地を治めることとなりました。
その後、蠣崎氏は1593(文禄2)年に当時の大館館主蠣崎慶広(かきざきよしひろ)が、当時天下を平定していた豊臣秀吉から全蝦夷地(樺太・北海道)の支配権を与えられました。 1599(慶長4)には姓を松前に改め、1719(享保4)年には大名に昇格し正式に1万石格の松前藩藩主となりました。
(写真は勝山館跡)

道南十二館

道南地方に造られた館のうち、「新羅之記録」(現存する最古の松前藩の歴史書)にある有名な館の総称です。
これらの館は中世末期に主にアイヌの攻撃により廃絶していますが、蠣崎氏(後の松前氏)の陰謀によるという説もあります。

館 名 館 主 所在地 備 考
志濃里館 小林良景 函館市志海苔町 14世紀後半または15世紀初頭に完成し、1512年アイヌとの戦いで廃絶
箱館(宇須岸館) 河野政通 1512年アイヌとの戦いで廃絶 箱館の地名が生まれる元となったといわれる館
茂別館 下国家政 北斗市(旧上磯町)矢不来 コシャマインの乱で落ちなかった館。家政の孫の師季の代1562(永禄5)年アイヌに攻められて廃絶。
中野館 佐藤季則 木古内町中野 遺跡がはっきりと見つかっておらず、詳細な場所は不明。
脇本館 南条季継 知内町涌元 遺跡がはっきりと見つかっておらず、詳細な場所は不明。
穏内館 蒋土季直 福島町吉岡 館跡は現在国道228号線になっています。
覃部館 今泉季友 松前町東山 及部川西側七面山付近にあったらしいが、遺跡は未確認。
大館 下国定季、相原政胤
のちに蠣崎光広、義広など蠣崎氏の居館
松前町神明、福山 1512年アイヌの攻撃により当時の守将相原季胤・村上政儀が敗北。 翌年蠣崎光広がすぐに入城。1606年福山館に蠣崎氏が移動するまで道南の中心館。
禰保田館 近藤季常 松前町館浜 昔は近藤の馬場跡、近藤神社などもあったという。
原口館 岡辺季澄 松前町原口 館跡には古代の遺跡もあり、判然としない。
比石館 厚谷重政 上ノ国町館野 1469年廃絶されたらしい。縄文時代後期の遺跡もあり、アイヌのチャシを館に利用したとされる。
花沢館 蠣崎季繁 上ノ国町勝山 武田信広は季繁の養女の婿となり、のちにここより西の地に勝山館を造った。

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